見出し画像

72.

夢の中で彼はずっと、懐かしいピアノの音色を聴いていた。プールの底から水面の光を眺めるようにゆっくりと意識が浮上して、それがBOSEのスピーカーから流れている本物・・だと気付くのに、少し時間がかかった。


「いい曲だろ?」式台の手前で靴を脱ぎながら、トレーを手にしたジョシュアが言う。「デビュー直後のソロアルバムだけど、大好きなんだ」
「誰?」
石嶺いしみねあきら。ジャズピアニストの中では、この人のスタイルが一番好きでな」皿とホットミルク入りのマグカップ、ステンレス製のフォークをそれぞれ2つずつ乗せたトレーをテーブルに置きながら、彼はにっこりする。「子供の頃は、夢中になってコピーしたよ」
「へえ」メイは敢えて、無関心を装った。「アメリカ人だと?」
「好きなピアニストは無数にいるけど、CD根こそぎ買い漁るレベルの人は少ないな。それくらい、この人は凄いよ」
「そうなんだ」
「こんなに上手いのに大抵デュオかトリオで活動してて、ソロはほんと少なくてな。会った時に思い切って理由を聞いたら、共鳴してくれる相手がいないと寂しいから、ソロは苦手なんだって言ってた」
「えっ?会ったことあるのか?」
「サックスに転向してからだけどな。さすがに恥ずかしくて、あなたに憧れてピアニストになりましたなんて言えなかったよ」
「ふうん」メイは意識的に、話題を変えた。「ところで、それは?」
「スパニッシュオムレツ」彼は皿の上にフォークを添えつつ、メイを手招きする。「ワンさんとこにでも行こうかと思ったけど、雨が酷くてな」
「あ、ほんとだ。梅雨入りしたっぽいな」メイはソファに座り、両手を合わせる。「いただきます」
bon appetitどうぞ
「おっ、美味いね。じゃがいも入りなのか」
「たまには俺の手料理もいいだろ?」
「うん」メイは、笑顔で頷いた。「毎日でもいいよ」
「ボスも言ってたけど、あんたの素直さは武器ウェポンだよな」ジョシュアはオムレツを口に運びながら、首を傾げる。「きゅんきゅんするぞ?」
「そうか?思った通り言うようにしてるだけだけど」
「ディーさんは、自覚のない小悪魔seductrorだって言ってた」
「何だそれ?」
「作為や媚びのないとこがあんたの美点で、それだけに脅威なんだ」
「よくわからないけど、褒められてる気が全然しないぞ?」


美しいソロピアノを耳にしながら、メイはさっきまで見ていた夢のことを思い出す。小樽から東京へ戻った直後、石嶺さんが専属のベーシストとして正式に俺を抜擢してくれた時から、命尽きる日まであの人に仕えていたいと願っていたのに。仙台で初めてのツアーを終えたあの夜、ベッドの上であの人を抱きしめて、ずっと傍にいますと誓ったのに。結局俺は、嘘つきになってしまったな。

苦い記憶を頭の外へ追いやりながら、ジョシュアが用意してくれたホットミルクに口をつける。激しい雨音に重なるピアノの音色。食器の触れ合う音や部屋に漂う微かなトワレ、手の中にある確かな温もりに、俺がいるこの場所の方が現実なんだな、と、メイはあらためて思った。今は、あの頃のことの方が余程、夢だったんじゃないかと思える ──── 


「またそんな憂い顔して」ジョシュアは、目を細めて言う。「昔の女のことでも思い出したんだろ?」
「何を根拠に」メイはつい、笑ってしまう。「ちょっと、古い夢見ててさ。果たせなかった約束を思い出して」
「今からだと間に合わないことなのか?」
「そうだね」
「それは辛いな」
「ほんとに。俺は、現実から逃げてばっかりだ」
「俺もそうだったよ。例の事故のあとはずっと。天使エンジェルに会うまでは」
「前から気になってたんだけど。誰なんだ、それ?」
「日本のアイドルだ」
「えっ、ジョシュが?意外だな?」
「偶然見たTVショーで一目惚れしてな。2018年から追っかけしてるんだ」
「へえ、凄いな。その子を追って日本に戻ってきたのか?」
「まあな」
「俺アイドル全然詳しくないんだけど、乃木坂とかAKBとかそういうの?」
「そこまで大所帯じゃないよ」
「ももクロとか、BABYMETALとか、Perfumeとか?」
「もうちょっとマイナーな子だけど。線としては悪くない」
「そうなんだ。その割に部屋にグッズとかないよな?」
「俺は筋金入りのファンだから、CDやDVDは勿論、掲載された雑誌まで殆ど集めてるけど、とにかくライブが最高なんだよ。プライベートで見せる素顔もチャーミングなんだが、ステージにいる時の表情がもの凄く好きでな」
「ああ、なるほどね。わかる気がする」
「メイにはないのか?そういう、心の支え的な存在は」
「ああ ──── まあ、いるけど」彼は、石嶺のことを思い出す。「子供の頃から、死ぬほど憧れてる人がいて。ずっとよくして貰ってたのに、病気の件で突然仕事辞めることになって、不義理しちゃってね。合わせる顔がないよ」
「体のことなんだから、しょうがないだろ。落ち着いたら会いに行って、きちんと謝ればいいさ」ジョシュアはコーヒーを飲みながら、微笑んでくる。「悪い人じゃないんだろ?」
「全然。一緒に仕事してた頃、俺を可愛がってくれてた大先輩でね。めちゃくちゃ仕事が出来て、頭が切れて、もの凄くタフで。でも、びっくりするくらい優しくて、格好いい人なんだ」
「だったら大丈夫だ。いざとなったら、俺も一緒に謝ってやるから」
「やめてくれ。関係ない奴にまで謝られたら、向こうが混乱するから」
「そうかな?」
「そうだって。時々面白いこと言うよな、ジョシュは?」
「お父さんだからな。あんたが独り立ち出来るのか、心配で心配で」
「ほら見ろ!」彼は、心底呆れた。「まだ根に持ってるじゃないか」
「あんたを揶揄からかうと楽しくてな」
「全く」彼は、首を横に振る。「余計なこと言うんじゃなかった」




買い物に出掛けるというジョシュアと、一緒に部屋を出る。屋上に敷かれた人工芝の上で、雨脚が白い飛沫しぶきを上げていた。

「今度俺のとこに来る時は、靴持って来た方がいい」プレハブハウスの玄関で傘を開きながら、ジョシュアは振り返る。「雨が降ると、こんな状態になるからさ」
「そうするよ」借りもののナイキを見下ろしながら、彼は言う。「ジョシュ、靴のサイズ何cm?」
「メーカーにもよるけど、大体32cmかな」
「道理で。でかいと思ったんだ」



1階のエレベーター前で彼と別れ、フロントにいた李と雑談してから自室に戻る。エレキベースの練習をしようとベッドの下からケースを引き出し、上蓋を開けてみた時、何となく違和感があった。

「あれ?」

ベースのボディー部分を覆うように掛けていたクロスが、僅かによじれていることに気がついた。ベッドのアンダーシーツを確認してみると、きっちり45度で3角コーナーが作られている。空軍上がりのジョシュアの癖だ。

「ああ、ヤバいな。ついに見付かったかな」

メイは思わず溜め息をつき、右掌で額を覆った。まあでも仕方がない。このままいつまでも隠し通せることでもないし ──── 




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?