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236.

12:02。

「 ──── 2000円丁度お預かりします。ありがとうございました!」
「いえいえ!ああそうだ魚住うおずみくん、マカロンご馳走さま。美味しかったよ!」岸夫人は、レジを担当している亮人りょうとに笑顔を向ける。「あんた、大崎のPoissonポワソン d’avrilダブリルの息子さんなんだって?今度買いに行かないとねぇ!」
「はい、ありがとうございます!お待ちしております!」
「ごっそさん!今日も忙しそうだけど頑張れよ!」岸は、銘の肩をぽんぽん叩く。「ナベさんと一緒にセッションにも顔出すよ。またあとでな!」
「いつもありがとうございます!風強いのでお気を付けて!」
「ありがとうございました!」空いた皿をシンクに置いたあと、和哉は伝票を読み上げる。「オーダー入ります。4番さん日替わり2、Aセット2、ドリンクはアイスコーヒー2、アイスカフェラテ1、ウーロン茶1で、オール食後です!」
「了解! ──── あ、亮人くん、時間大丈夫?3限からまた大学戻らないとだろ?」
「ですね」彼は壁に掛けられた時計を見上げ、心配そうに言う。「でも、大丈夫ですか?奏さん10:00で帰られましたし、ランチタイムに和哉さんとお2人だけだと大変じゃないです?」
「大丈夫だよ!」銘は、笑顔で答える。「ていうか、昼休みまで働かせちゃってごめん。運が悪かったね?」
「いえ、そんな。ご飯食べに来たらめっちゃ混んでたんで、勝手にお手伝いしただけですし」
「そろそろ葵も来るし、実習だと準備とかいろいろあるだろうから、もう上がって」慣れた手付きで食器を洗いながら、和哉は微笑んだ。「お疲れさまでした!」
「あ、はい、お疲れさまでした。お先に失礼します」

亮人が制服代わりのエプロンを外そうとした時、店の電話が鳴った。彼は即座にそれを取り、はきはきと答える。

「 ──── お電話ありがとうございます、Riotです。 ──── はい?ええと、あの、エクスキューゼ・モア?」

洗い物を続けながら、和哉は彼の方を振り返る。亮人は困惑しきった表情で、コードレスフォンを握ったまま厨房へと向かう。

「 ──── 銘さん、すみません。お忙しいところ」
「うん?」フライパン2つを並べて調理を続けながら、彼は尋ねる。「どうしたの?」
「ムッシュー・イクザキって仰ってるので、銘さんにだと思うんですが」彼は、申し訳なさそうな顔をする。「僕、フランス語はわからなくて ──── 」
「わかった。和哉くん、こっち代わって貰える?」
「わかりました」彼はタオルで手を拭きながら、厨房へ入る。「4番さんのセットは終わってます。ドリンクはまだ出さなくて大丈夫です」
「了解!」言いつつ、子機を受け取って。「亮人くん、相手の名前は?聞き取れた?」
「いえ、すみません」
「ああ、いいよ、大丈夫。お疲れさま!」
「はい、お疲れさまでした。また夜来ます」

銘は微笑みつつ、カーテンの向こう側へ消える。使用済みのエプロンを外してカゴに入れ、ロッカーからバックパックを取り出している間、こちらに背中を向けた姿勢で廊下に佇み、流暢なフランス語で会話している銘の背中に、亮人はつい見惚れてしまう。ああ、ほんとに凄いな、銘さんは。こういう時やっぱり、ワールドワイドで活躍されてた方なんだなって、あらためて思うよ。僕もいつか銘さんみたいに、世界の舞台に立てる日が来るんだろうか?



「 ──── お電話代わりました。郁崎です」
Salutやあ、メイ!久し振りねぇ!」明るい声が、送話器の向こう側から聞こえてくる。「元気にしてた?」
「嘘でしょう?アダンさん?」銘は驚いて、声を潜める。「お久し振りです!すみません、すっかりご無沙汰してしまいまして!」
「こちらこそ!5月に退院して、カオルのところにいるって話は聞いてたけど。その後体の方は大丈夫なの?」
「まああの、正直な話、よくはないですが。悪くもないという微妙な状態で ──── 」
「でも、そこまで回復出来てよかったわよ。カーネギーのニュース見た時はあたし、ほんとにびっくりしちゃって!厨房できゃーきゃー叫んじゃったからね?」
「ですよね、すみません」銘は、ふと気になって訊いてみる。「あ、ていうか、どうして店の電話に?携帯の方に直接ご連絡くださればよかったのに」
「だって、何度かけても繋がらないんだもん!あなたひょっとして番号変えた?」
「あっ、すみません、そうでした!ニューヨークで紛失して、日本で買い替えたんです」
「ほら見なさいよ、ほんと、そういうとこ!頭のいい子な割には、何処か抜けてるのよねぇ?」
「仰る通りです。申し訳ありません」
「嘘、うそ、慣れてるわよ!」彼は、くすくす笑っている。「ああ、ごめんなさいね?お昼の忙しい時に!今大丈夫?」
「はい、大丈夫です」銘はカーテン越しに、葵の声を聞く。「それで、何かありました?」
「何かって?」アダンは、不思議そうに尋ねる。「今夜はうち・・に来るんでしょう?」
「来る、とは?」
「あなたの最愛の人モン・シェリがせっかく日本にいるのに。エスクワイアには行かないんですって?」
「ああ、はい。仕事がありますので」
「仕事って ──── 」彼は、絶句する。「そんなの、カオルに任せておいたらいいじゃない?バイトだっているんじゃないの?」
「そうなんですけど。実は俺、10月から正式にRiotのオーナーになったので、そうもいかなくて ──── 」
「あたしもオーナーだけど、ほっといても店は回るわよ?今後プロとして活動していくんだったら、それぐらいにしておかないと駄目でしょう?うちのスタッフにもいつも言ってることだけど、仕事に追われるだけの人生って最高につまらないものよ?そう思わない?」
「それはあの、わかるんですが。毎週木曜はセッション・デーなので、学生さん達だけに任せる訳にはいかなくて ──── 」
「あのね?メイ」彼は子供に言い聞かせるように、優しい口調で話す。「あなたがもう長旅に耐えられない体だっていうのはあたし、チネンやアキラから聞いてもうとっくに知ってるの。だから逆に今、この機会にジョシュに会っておかないと、後悔することになるんじゃないの?」
「はぁ ──── 」
「ぶっちゃけあなた、明日死ぬか来年死ぬかって状態なんでしょう?プライベートでも公認のパートナーなんだから、ジョシュは絶対に会いたいと思ってる筈よ。だって、次いつ日本に帰って来られるか、その時メイが無事なのかどうかもわからないんだから、そりゃ元気なうちに会っておきたいわよ。違う?」

そうだろうか?と、銘はいぶかしむ。今日はジョシュのジャパン・ツアーの最終日で、昼夜別々の会場で演奏しなくてはならないし、しかもそれが日本のカーネギーと称されるエスクワイア銀座と、国内最高峰のジャズクラブであるジャルダンで、幾らジョシュが経験豊富なプロフェッショナルでも、連日の演奏と移動とで相当体力と集中力を持っていかれてるだろうし、プレッシャーも相当なんじゃないか。そんな時、俺がのこのこ彼に会いに行くのは正解なんだろうか? ──── いや、違う。言い訳だよ、そんなものは全部。俺は単純に、怖いんだ。俺に言われた通り、俺の夢を叶えるために全力で戦ってくれているジョシュに、無名のファンとして5年もの間、俺を追い掛け続けてくれていた男に、伴侶であり、同時に永遠のライバルでもある天才ピアニストに、こんな落ちぶれた姿を見せたくない ────


「 ──── まあ、そういう訳だから!ちゃんと段取りはしておいたわよ!」アダンは、明るい声で締め括る。「うちのあらゆるスタッフにメイのことは話してあるからね。受付を通りたくないなら裏口からひょいっと来てくれれば、ハンサムなガードマンが速やかに特等席へ案内するわよ!」
「いや、ええと、その。お気持ちはありがたいんですけど ──── 」
「あなたこれまで何度も出演してるし、裏口はわかるでしょう?あたしはステージ袖にいるから、来たら遠慮なく声掛けて頂戴!リハは16:00から、オープンは17:00からよ!今夜ねÀ ce soir!」
「あっ、ちょっと待っ ──── 」

せっかちなフランス人は、銘の返事を待たずに通話を切ってしまう。相変わらずマイペースな人だよな?と銘は呆れ、次いで深々と溜め息をつく。ほんと、参ったな?どうしてみんな、こうもおせっかいなんだろう?


憔悴しきってカーテンを潜ると、和哉と葵が同時に振り返る。子機を充電スタンドに戻した銘は何とか気力を振り絞り、顔を上げて2人に微笑みかける。

「葵くん、お疲れさま。悪いね、急に無理言って」
「お疲れさまでーす!」葵は、ぴしりと姿勢を正す。「いえいえそんなの、俺でよければいつでも呼んでください!銘さんのためなら全然ですよ!2限3限飛んでも余裕です!」
「あー、またこれだ。ほんと暑苦しい!」てきぱきとドリンクオーダーを捌きながら、和哉はうんざりした顔をする。「葵、サボってないで!1番さんとこ下げてきて!」
「はーい!」葵は愛想よく返事をし、シルバートレーとダスターを手に取った。「で、どなたからの電話です?」
「アダン・ルー」洗った手をタオルで拭きながら、銘は答える。「ジャルダンのオーナーの」
「マジっすか?すっげ!かっこよ!」葵は目を丸くし、興奮気味に身を乗り出す。「てか、銘さんクラスになると、そんな偉い人から直で電話来ちゃうんですね?」
「いいからお前はさっさと仕事して!お客さん来ちゃうだろ!」葵の尻を叩いたあと、和哉はドアへ視線を向ける。「 ──── いらっしゃいませ!1名さまですか?」
「いや、えっと」学生らしき若者は店の奥を覗き込み、遠慮がちに尋ねてくる。「あと3人来るんですけど、テーブル席って可能ですか?」
「大丈夫ですよ」銘は掌を上向け、にこやかに案内する。「準備が出来次第お呼びしますので、そちらのソファにお掛けになってお待ちいただけますか?」
「わかりました。ありがとうございます」
「銘さん、フードの方お願いしていいですか?」
「ああ、勿論!」彼は伝票の内容を確認し、材料を冷蔵庫から取り出す。「セットはもう出てるのかな?」
「すみません、まだです。そちらはボクがやりますので」
「了解!ナポリタン4、日替わり3、ミックスピザ、単品でチキンピラフだね。葵くんは食事済ませてきたのかな?」
「いや、多分まだだと思いますけど」
「落ち着いたら何か作るから、声掛けて貰えれば」
「わかりました!」

厨房へ入り、順番を組み立てながら調理を進めている間も、銘は無意識にiPhoneの画面に視線を落としてしまい、そんな自分にますます気が滅入ってくる。いや、来ない。来ないって。連絡なんか来る訳がない。ジョシュは朝イチの便で羽田に戻って、その後もテレビ出演や取材に追われていて、それどころじゃないだろうから。俺も正直、それどころじゃないし。昼も夜も、やることが沢山あるから ────












「 ──── で、今日はあいつ、来るの?来ないの?」
「どうするんすかねぇ。来るとしてもエスクワイアの方じゃないと思うっす」
「いやいや、あんなにラブラブだったのが、すっかりこじれちゃってるみたいだな?」坂田は、後部座席から体を乗り出してくる。「まあ、銘もだけど、ジョシュも相当頑固で偏屈だから。お互い変に義理立ててんのかね?」
「あたしといつきもそうだったけど、音楽家同士のカップルって、そこがほんと難しいのよ。どっちかがばーんと売れれば嫉妬したくもなるし ──── 」
「そうなんですか?」坂田は、首を傾げる。「宗ちゃん、俺に嫉妬してくれたことありましたっけ?」
「何言ってんのよ?あんたなんか凡人中の凡人でしょ?」宗治は、呆れ顔で振り返る。「あたしに嫉妬されようなんて6億年早いし、そんなナマ・・言ってると、樹が夜な夜な枕元に胡坐あぐら掻いて説教垂れるわよ?」
「すみません、仰る通り!」彼は苦笑いし、再びシートに凭れる。「ていうか、樹さんに怒られるのだけは勘弁して欲しいですねぇ?」
「嫉妬で思い出したんすけど、銘さんが石嶺さんと東京フォーラム出てたあたりは立場が逆だったんすよ。銘さんには敵わないって、ジョシュさんがどちゃくそ落ち込んでて」ステアリングを操りながら、奏はちらりと助手席を見る。「一時期はほんと思い詰めて、ピアノ辞めて、本気で銘さんのマネージャーになるつもりだったっぽいし」
「なれる訳ないでしょう?テキサスの暴れ馬が!むしろ手綱代わりにマネージャーつけないと駄目よ!」宗治は顔をしかめ、シャネルのハンドバッグから化粧ポーチを取り出す。「ていうかそんなの、銘が絶対に許さないわよ。あいつ、ジョシュの才能にとことん惚れ込んでるんだから!」
「そうなんすよ。そんな事件があったせいで銘さん、ジョシュさんを傍に置いといたらまずいって思うようになったらしくて ──── 」
「それもあるだろうけど。銘はああ見えてプライドの高い子だから、ジョシュに成功して貰いたい一方で、そのことで自分がずたずたになるのが怖いのよ」バニティミラーを使ってリップを塗り直しながら、宗治しゅうじは答える。「特にあいつらみたいな世界有数のガチ勢は、めちゃめちゃ愛し合っておきながら、音楽的には一歩も譲らずに火花散らし合ってるから、一般人パンピーには理解不能な関係だろうし、その分複雑っていうか、性質タチが悪いのよ」

宗治の言葉を聞きながら、奏は内心唸った。ああ、やっぱ、ママさんの洞察力はすげえよ。だからこの人はマジでこええし、絶対に逆らえねえんだ ────

「まあ、確かに」坂田は軽く溜め息をつき、腕組みする。「7月の野外で銘と会った時、完全にプロの顔になってるなって思ったんです」
「逆にそれぐらいの根性なかったら、10代でアメリカなんか行けなかっただろうしね。とにかく規格外のバケモノなのよ、あの2人は」
「ママさん、もうすぐエスクワイアっすけど。駐車場ってどっから入るんすか?」
「ああ、いいわよ、その辺の歩道で降ろしてくれれば ──── あ、ほら。もうみんなそこに集まってるじゃないの?」
「あ、そっすね。アコルヂスチームも早えな?」奏は左ウインカーを出し、車を緩やかに停止させる。「で、お迎えは?」
「適当にタクるから、そのまま帰っていいわよ。サンディが今日はどうしても早めにリハやりたいって言ってるから、13:00には開けとかないと」
「畏まりっす。じゃ、皆さんによろしくっす!」

宗治と坂田を降ろしたのち、奏は右ウインカーを上げて再び本線に合流し、信号待ちの間に、エスクワイア周辺の様子をバックミラーで確認し続ける。ピンク色のドレスを身にまとい、ゴージャスな薔薇の花束を抱えた宗治と、ダークブルーのスーツという格好の坂田をオーナーの南雲なんうんが自ら出迎え、その3人を、アコルヂスの面々がにこやかに取り囲んでいるのが見える。ええと、ママさんの隣にいるのは良さんと徳さんか。あとはパイさんと幸田さん、リーさんと百田さん、ろんさんと透真とうまさん、ガクさんとかえでさん、邦弘クニさんとトムさん、小松マツさんと明仁アッキーさんと ──── 残りは女子棟のスタッフで、唯さんと沙良さらさん、美玖みくさんとシノさん、萌果モエさんと麻実マミさんの総勢20人。数もさることながら、すげえ面子だな?



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