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75.

エレベーターホールの向かい側にある広さ2畳ほどのドア付きの小部屋に、ジョシュアは彼を連れ込んだ。非常階段に接した左側の壁の上には換気扇と小窓があり、右側の壁には作り付けの大きな棚があるものの、その上には空のダンボールが幾つかと灰皿代わりの空き缶が一つ置いてあるだけで、頻繁に使用されている形跡はない。元々はリネン室として作られたものが、今は単なる物置ストレージになっているようだ。

「ま、座ってくれ」

ジョシュアは照明と換気扇をつけ、隅に置かれた丸椅子を引っ張り出してきて、メイに差し出す。

「へえ」彼は椅子に腰を下ろし、周囲を見回した。「2Fの入り口に、こんな部屋があったんだ」
「そう。ここは監視カメラホーク・アイがないからな」ジョシュアは壁にもたれ、胸ポケットから取り出した煙草に火を点ける。「俺と徳さんの隠れ家だ」
「喫煙スペースじゃなくて?」
「そうとも言う」
「良さんにバレて怒られても知らないぞ?」
「その時はその時さ」換気扇の下で煙を吐き出しながら、彼は微笑んだ。「少しは落ち着いたか?」
「まあね」メイは、首を横に振る。「参ったな。またジョシュに泣かされたよ」
「あんたに褒めて欲しくて頑張ったのにな。まさか泣かれるとは思わなかったぞ?」
「泣くさ、あんなバラード聴かされたら。俺以外にも泣いてた人いっぱいいたし」
「ふふん」ジョシュアは、得意気に笑う。「舐めてたろ?俺のこと」
「正直言うと、そうだ。ほんとごめん」彼は、素直に謝った。「ホテルの常連客も、良さんも李くんもパイさんもみんな、ジョシュのピアノは凄いって前々から言ってたから、相当な腕なんだろうなっていうのは想像ついたけど。まさかあそこまで弾けるとは思わなかったよ」
「俺的には、テナーの方がもっとずっと凄かったんだけどな。今聴かせてやれないのが残念だ」
「ほんとに。YouTubeとかに動画上がってないのか?」
「音楽隊時代のとか、営業シャリコマのはな。隠し撮りされた奴が殆どだけど。ストリームの方がお勧めだ」
「今度探してみるよ。それにしても、いつの間に練習してたんだ?」
「まあ、ちょこちょこ。時間のある時に」彼は煙草を咥え、指のストレッチをする。「俺は見栄っ張りだからな。舞台裏backstageを見せるのは嫌いなんだ」
「ああ、なるほど」

そんなところまで似てるんだな、と、メイは思った。彼自身、練習している姿を誰かに見られるのは昔から苦手だったからだ。

「日本語で話してたからよくわからなかったけど。兄さんと喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩というか、怒られてた。ここに着いたあと、連絡入れるのうっかり忘れてて」
「そりゃそうだ。あんた1人で帰ったと思ってただろうし」
「だよね。失敗したよ」


非常階段側にある小さな窓越しに、激しい雨音が聴こえてくる。ジョシュアはしばらく黙したまま、煙草を吸っていた。

「戻らなくていいのか?」
「何が?」
「セッション。ホストなんだろ?」
「ああ。今日はやたらとピアニストが多いから、しばらく順番は回って来ないさ」
「へえ。水曜セッションは人気があるんだな」
「ディーさんは腕利きのベーシストで、おまけにイケメンだからな。彼がホストを務める日のセッションは、ピアニストと女性客が多いんだ」
「なるほどね。わかる気がする」
「女子棟のスタッフも何人か来てたよ。あんたが席を譲った藝大生とか」
「ああ、アルトサックスの子か」彼は、すぐに思い出す。「小柄で華奢で、黒髪ストレートの。清楚で可愛い子だったな」
「パイさん情報だと、李くんがその子に片思いしてるらしくてな。皆で見守ってるんだ」
「マジで?」
「内緒だぞ?アリーシにバレたら、李くんとボスの命が危うい」
「勿論。しかし、李くんもお目が高いね?」
「同じ大学だし、管楽器同士だし。気が合うんだろう」
「いいなあ。青春って感じで」
「あんただってまだ若いだろ?」
「俺は ──── 」音楽一筋だったと言いかけて、咄嗟に内容を変更する。「そういうこととは全く縁がなかったからね」


ふと言葉が途切れたあと、再び沈黙が訪れた。メイは彼との距離の近さに少しだけ緊張を覚えたが、ジョシュアはいつも通り愛想よく微笑んでいて、先程までステージにいた凄腕のピアニストとは、まるで別人のように思えた。


「あんな速い曲を、ジョシュもディーさんも余裕綽々な感じで弾いてて。凄いなと思ったよ」
「ディーさん、今はちゃんと弾けてるが、最初は全然ついてこれなくてな。リハなし譜面なしのぶっつけ本番で3回やらせて、あそこまで出来るようになったんだ」ジョシュアは、目にかかる前髪を指先で払いながら言う。「元々クラシック畑の人間だから、技術的には非の打ちどころがないけど。俺にはまだちょっと物足りないな」
「あれで?」メイは思わず、反応してしまう。「嘘だろう?」
「ディーさんも自分に足りないものはよくわかってて、克服しようと努力してる。聴いてりゃわかるけど、彼、練習量が半端ないんだよ。そこら辺のプロ顔負けじゃないかな」彼は右手に持った煙草の中程を人差し指で軽く叩き、灰を空き缶の中に落とす。「お互いホストやるようになってまだ日は浅いけど、あんなに上手いのにもの凄く謙虚で。そこが俺は一番好きなんだ」
「そうなんだ。単純に凄いと思って聴いてたけどね」
「一緒に演奏してみて初めてわかる部分も多いんだ。あと、これはまあ本人にはどうしようもない問題だが、好みや相性もあるからな」
「申し訳ないけど。高度に音楽的な話は、俺にはよくわからない」
「そうだったな、すまん」彼は、空き缶の内側に煙草を押し付けて、火を消した。「あんたが酷く落ち込んでたのには、何か理由があるのかと思って」
「いや、別に」
「正直と素直が、あんたの美点だろ?」
「そんなことないよ。俺は嘘つきで捻くれ者だから」
「まあ、そうかもな」
「そんな簡単に肯定するか?」
「ディーさんに嫉妬したんだろ?」

ずばりと核心を突かれ、メイは絶句した。彼は脚を組み直し、溜め息をつく。それを見下ろしながら、ジョシュアは2本目の煙草に火を点けた。ガラム独特の芳香が、微かに漂ってくる。

「ほら見ろ」彼は、くすくす笑った。「わかりやすい奴だ」
「ベース練習してるって言っても俺は初心者だし、元プロに嫉妬する理由がないだろ?」
「ネガティヴな感情を抱くのは、必ずしも悪いことじゃないぞ。自分のコンプレックスを乗り越える原動力になるからな」
「それは ──── そうだけど」
「その悔しさを音楽にぶつけてみるといい。皆誤解してるけど、あんたは元々情熱的apasionadoな人間だから。きっと上手くいくさ」
「出来るのかな、俺に」
「出来るさ」彼は、あっさり言う。「失敗したらどうしようとか、迷惑かけたらどうしようとか。くよくよ考えずに、先に進むんだ」


外から聞こえる雨音は、次第に激しさを増していた。メイは見るともなしに、窓の方を見上げる。そうだよな。いい加減、行動しなければ。俺に残されてる時間が、あとどれくらいあるかもわからないし ────

「ジョシュの言う通りだよ」彼は、ようやく頷いた。「とりあえず、やれるだけのことはやってみる」
「よしよし」ジョシュアは煙草を咥え、右手で頭を撫でてくる。「いい子だGood boy
「ったく」彼は、その手を払いのける。「子供扱いするなよな?」
「あんたはまだまだ子供だよ。ちょっとしたことで喜んだり、はしゃいだり。泣いたり、拗ねたりさ」
「悪かったな」彼は、そっぽを向く。「ジョシュから見たら、そうだろうけど ──── 」
けなしてる訳じゃないさ。褒めてるんだ」
「何処が?」
「いいことじゃないか。誤魔化したり繕ったりすることなく、自分の気持ちをストレートに表現出来るのは」
「それ即ち、子供だってことだろ?」


メイは深々と溜め息をつき、頭の中を整理する。どうしても彼に言いたいことがあったのを、ふと思い出したからだ。

「 ──── なあ、ジョシュ」
「うん?」
「一つ、お願いががあるんだ」
「いいよ、どんなことでも。あんたの頼みなら」
「俺がベースちゃんと弾けるようになったら、一緒に演奏してくれるか?」
「当たり前だろう?」彼は、笑顔を見せて頷く。「別に、今でもいいぞ?」
「今は駄目だ。まだ全然弾けないから」
「気持ちはわかるが。ディーさんも言ってた通り、上手くなってからなんて言ってたらいつになるかわからないし。現場で恥掻いて、体で覚えた方が早いぞ?」
「それはわかってるよ。だけどまだ駄目なんだ。俺自身が全然納得出来てないからね」メイは、彼を見上げて答える。「自分が納得してない状態に付き合わせるのって、一緒に演奏してくれる相手にも失礼なことだろ?」

ジョシュアは微笑みつつ、頷いた。壁に凭れて立ったまま、真っ直ぐに視線を合わせながら。

「 ──── あんたの美点はもう一つあったな。自分に厳しく、ストイックなところだ」

彼は空き缶を左手で持ち、右手に持った煙草の火を缶の内側で揉み消した。さっきと同じように。

「そういうところが、好きだ」

その好きloveに普段とは違うニュアンスを感じたメイは、その憶測を即座に否定する。いや、待て。気のせいだ。この前と同じように、俺が変にジョシュのことを意識しだしているせいだ ────

「前から思ってたけど、ジョシュは簡単に好きって言い過ぎるぞ?」メイは動揺を隠し、何とか言葉を繋ぐ。「そんなんだから、誤解されるん ────」

ジョシュアが大きな体躯をゆっくりと屈め、その右手が左頬に触れてきた次の瞬間、メイには一瞬、何が起きたのかわからなかった。長い睫毛が目の前で伏せられ、言葉の続きを封じるように、唇が重ねられるまで。






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