健やかなる時も① 119
突然のことに、僕は驚いたけれど。
転落防止用のフェンスにかけていた左手は、しっかり押さえられていて。
右腕は動かしようがない。
僕の鼻先に丁度、彼の肩があり。
グレーのTシャツは、凄くいい匂いがした。
逞しい腕の中、服伝いにその温もりと鼓動を感じている間。
以前のような拒否感は起こらなかった。
とはいえ。
僕は、咎めなければならない。
理由は判らないけれど。
まだ、彼を受け入れる訳にはいかないと思ったのだ。
「 ──── 147」
「うん?」
「危ないだろう?火が点いてるのに」
「心配するな。わたしもだ」
「全く。君はいつも予想外の行動を取るな?」
「飽きないだろう?」
「そういう問題じゃない」僕は、溜め息をつく。「とりあえず、左手だけでも離してくれないか?」
「君の左手は凶器だからな。また眠らされるのは沢山だ」
「ここのところまた寝不足気味のようだから。少し休ませてやろうと思ったのに」
「ノー・サンキュー」
「でも、そろそろ本当に離してくれないか?」
「どうしてだ?」
「ひょっとして知らないのか?監視カメラがあるのを」
そう言うと。
彼はぱっと僕から離れた。
その様子がおかしくて、また笑ってしまう。
「意外と素直だな。本気にしたのか?」
「全く」彼は、拗ねたようにそっぽを向く。「君は相変わらず意地悪だ」
「そんなことはない」煙草を揉み消しながら、僕は答える。「少なくとも、前ほどじゃないね」
携帯灰皿を差し出すと、147は首を振り。
何を思ったか、吸いさしの煙草を、屋上から放り投げた。
次の瞬間。
予想通り、けたたましいベルが鳴り響き。
僕等は、顔を見合わせる。
「えっ?どういうことだ?」147は、おろおろしながら言う。「まずかったか?」
「まずいなんてもんじゃないな。監視カメラはないけど、温度感知センサーはあるんだよ」
「何でそれを早く言わない?」
「説明はあとだ」僕は、周囲を窺った。「逃げるぞ!」
「マジで?」
「勿論!」
そう言うなり。
僕は彼の腕を引っ掴み、屋上を飛び出して。
全速力で階段を駆け降りる。
そこから、彼が居室にしている隔離病棟へ向かい。
息を切らせながら、ベッドの後ろへ滑り込む。
「わたしもここへ来て最初に同じことをしたんだ。それ以来、灰皿を使うようにしてる」
「やれやれ。そういうことだったのか」
「アラーム担当の吉沢さんはうるさいからな。誤作動ってことにしておかないと」
「すまないな。迷惑かけて」
「大袈裟だな。別に謝ることじゃない」
「しかし参ったな」彼はまだ、くすくす笑っている。「悪戯のつもりが。こんなおおごとになるとは」
「それにしても、君はほんと子供みたいだな」
「そうかな?」
「そうだと思うよ。育ちがいいせいかもしれないが、とても年上とは ──── 」
そこまで言って。
僕は、彼との距離をようやく意識する。
壁に背をつけ、片膝を立てた状態の彼と。
その隣にいる自分。
見上げるとすぐの場所、息がかかりそうな距離にその顔があり。
思いがけず穏やかなその眼差しを受け止めた時。
山本の言葉が、不意に甦る。
(もう少し ──── 素直になられた方が)
馬鹿言うな。
一度はそう否定したけれど。
僕は何故か逆らえなかった。
彼の左腕が、肩に回された時も。
それから。
その唇が、初めて僕を捉えてきた時も。
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