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健やかなる時も① 101

残された白衣は、染みや汚れ1つなく。
彼の仕事振りや体つきを思い起こさせる、深い皺が刻まれていた。
微かな動悸を感じながら。
僕はしばらく、その服を弄んでいたのだが。
そのあちこちに、硬い感触があることに気付いた。
探ってみると、胸ポケットには彼のネーム・プレートがあり。
左のポケットには、プラチナの結婚指輪。
彼の死後、奥さんから連絡が来た時。
何処にも見付からなかったと言っていたものだ。
最後に探った右のポケットには、紙のようなもの。
取り出してみるとそれは、広報に掲載された僕の写真で。
一尉へ昇任した直後、カタールで撮られたものだった。
しかも。
記事の余白には、ボールペンの走り書き。
如何にも彼らしい綺麗な筆跡で、こう記してある。

【おめでとう、仁!負けないからな!】


それを見た瞬間。
僕はついに耐えかねて、白衣をきつく抱き締めた。
後悔と諦め、それと、仕事の忙しさ。
そんなもので誤魔化してきたけれど。
彼のことは、彼と過ごした時間は。
彼を失った事実は、彼のいない日常は。
僕にとって、容易に忘れられるようなものではなく。
彼の存在は、その影響は、まだこれほどまでにホットなのだと。
僕はまだこんなにも、彼に心を残しているのだと。
あらためて、そう気付かされた。
激しい胸の痛みと共に。

それならば、何故。
愛していると。
君を愛していると。
どうしてあの時、言ってやらなかったのか。
答えてやれなかったのか。
去年の9月。
彼の結婚式に出席するために帰国して。
その前夜。
ホテルで2人きり、話す機会があった。
その時。
お互いの身に何があろうと、傍にいると誓ったじゃないか。
ずっと、一緒にいると言ったじゃないか。
それなのに、こんなことになって。
結局君も、僕を1人にするんじゃないか。
両親や、弟や。
他の連中と同じように。
1人で逝ってしまったじゃないか。
僕をここへ置き去りにして。
こんなクソったれな世界に、救いようのない現実に。
僕だけを1人残して ────




波立った心が収まってから。
僕はようやく、有賀の白衣をロッカーに戻した。
その存在に気付かなかったことにして。
返却しなければならないことは知っていたけれど。
僕以外にこうして、彼を想う人間がいて。
日々、祈りを捧げている人間がいる以上。
ここに残しておくべきだと思ったからだ。


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