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健やかなる時も① 118

真っ白な廊下の突き当たり、その先にジュラルミン製の頑丈な二重ドアがあり。
そこを押し開けると、湿った外気がどっと流れ込んでくる。
ペルシャ湾から吹き寄せる生暖かい潮風。
その中に混じる147のコロンと、ガラム特有の芳香。
街へ出て、自由に買い物が出来るようになって以来。
彼は、コロンを使うようになったのだ。


「やっと来たな?」

「悪いな、待たせて」

「構わないさ」彼は、背中を向けたまま答える。「どうせ、山本くんのところへ行ってたんだろう?」

「え?」

「彼は、君のお気に入りだから」

「何言ってるんだ。連続勤務になったから、様子を見に行っただけだ」

「そこが、君のいいところだな」彼は、煙草を1本抜き出しながら言う。「いい上司だ」

「もうすぐ、離れ離れになるからな。あの連中とも」

「そうなのか?」

「ああ」僕は、火を点けながら答える。「帰国時に、一度解散して。再編することになる」

「ここがなくなるからか?」

「それもあるが。軍では、同じ人間を長い期間一緒に組ませるのを避ける傾向にあるんだ」

「どうしてまた?」

「長年同一メンバーで編成していると、セクションぐるみの馴れ合いや不正が生じる恐れがあるからな。今のように」

「……」

「今回はそのお陰で助かったが。他ではそうはいかなかっただろう」

「なるほどね」彼は、肩を竦める。「こんなお荷物背負い込んだら、迷惑するだろうからな、普通」

「そういう意味で言ってるんじゃない」僕は、思わず笑ってしまう。「何処まで後ろ向きなんだ?」

「後ろ向きは性分でね」

「それは知ってる。嫌と言うほど」

「知ってたか」

「長い付き合いだからな」煙を吐きながら、僕は答える。「5月からだから。4ヶ月弱か」

「短いじゃないか」

「捉え方ひとつだよ。コップに水が半分あるのを、もうと見るかまだと見るか」

「君は意外と楽観主義者みたいだな?」

「悲しい事件にはもう飽き飽きしたからね」

「へえ」

「例えば ──── 有賀の前に、この病院を統括していた三佐がいたんだ」

「うん」

「これがまた、威張るわ女好きだわのどうしようもない奴で。皆、そいつに振り回されてて ──── 」

「……」

「わたしも正直得手じゃなかった。看護官だけじゃなく、医官にも嫌われていたし」

「なるほど」

「今年の1月か。市街地を歩いてる最中、突然爆撃があって…」

「うん」

「その時、たまたまわたしも同行していたんだが。ビルの破片が容赦なく降り注いできて」

「……」

「目の前で、三佐の脳髄が弾け飛ぶのを見た。即死だったよ」

「だろうね」

「わたしにすれば、日常茶飯事だ。でも、日本では一切、そんなことは報道されていない」

「どうしてだ?」

「隊から軍へ移行して以来、軍事費はうなぎ昇り。国民の怨嗟を招いて当然だろう?」

「まあね。想像はつくよ」

「アラブの人民を、何故自分達の軍隊を派遣してまで助けなきゃいけないんだ?ってね。世論はそっちに流れている」

「……」

「だから、真実を公表出来ないのさ。実際の戦闘で死者や負傷者が出ようと、常に事故扱いだ。太平洋戦争同様に」

「じゃあ、沖縄の空爆は大問題だっただろうな?」

「そう。あれは揉み消す訳にいかないから。でもそれで、やや風当たりが弱くなった。皮肉なことにね」


屋上の手すりに凭れたまま、眩い太陽に目を細め。
眼下に広がるベージュ色の街並みを見下ろしている僕の右側に。
147は、すっと近寄ってくる。
だから。
僕は彼の方に、少しだけ体を向けた。

刹那。

僕は、その腕に抱き竦められていた。
抵抗する隙も与えられずに。
思いがけず、強い力で。


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