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76.

事態に気付いて逃れようとする前に、左手首を掴まれた。同時に、ジョシュアの左腕が背後からきつく肩を抱いてくる。唇を塞がれている間、激しい雨音と自分の心音に、彼の息遣いが重なってくる。薄れかける理性を引き止めるために、メイは敢えて目を閉じることも抱き締め返すこともせず、自分が今どういう状況に置かれているのかを客観的に認識し続けた。ここで目をつぶったら、負けてしまいそうな気がしたからだ。


「 ──── おーい、ジョシュ!出番だぞ!」

エレベーターホールから響いてくる徳田の声。抱き締めている腕が微かに緩むのを感じたメイは、身をよじって抵抗する。それに気付いてか、ジョシュアはあっさり彼を解放した。

「了解。今戻るよ」

椅子に座ったまま肩で息をしているメイを見下ろすと、彼は微笑みつつ額にキスをして、左手で頭を撫でてくる。

「また、あとでな」

メイは返す言葉もなく、茫然とその背中を見送った。激しい動悸と興奮を鎮めるために、両腕を強く掻きいだく。ショックと酸欠とで、思考が上手くまとまらない。ほんの数秒の出来事なのに、数分にも思えるほどだった。




準夜勤のパイとフロントで会うことを避けるため、メイは非常階段を使うことにした。1Fへ向かう間、横殴りの激しい雨に打たれているうちにようやく熱が冷めてきたものの、今日1日でいろいろなことが起き過ぎて、気持ちの整理がつかなかった。柔らかな唇とやや伸びた髭の感触、微かな煙草の匂いとクレテックの甘さ、掴まれた手首の痛みがまだ、体と記憶の両方に焼き付いている。何とか部屋のドアまで辿り着いたが、灯りを点ける気力もなかった。濡れた体のままベッドに倒れ込み、半ば放心したまま天井を眺め続ける。何で?と、思わずにはいられなかった。どうしてジョシュは突然、あんなことを?自分はゲイじゃない、異性愛者ヘテロだって。何度も言ってたじゃないか ────


(ジョシュに強姦レイプされたって。僕に訴えてきたんだ)

良から以前聞いた話が、どうしても頭から離れていかない。まさかとは思うけれど、エリックの件も南くんの件も、ひょっとしたらこんな事態インシデントがきっかけで、こじれていったんじゃないのか?

ともすると揺らぎそうになる彼への信頼を、メイは懸命に繋ぎ止めようとする。いや、違う。聡明なジョシュのことだから、きっと何か意図がある筈だ。或いはもう、気付かれているのかもしれない。俺が必死に隠そうとしていることを ────




気を取り直してシャワーを浴び、着替えて髪を乾かし、エレキベースをケースから引っ張り出したところで、ドアが3度ノックされた。メイはびくりと体をすくませて、それに答える。

「はい?」
「さっきはありがとう。ちょっとだけいい?」
「あっ、大丈夫ですよ」彼は少し迷ってから、楽器をそのままにして立ち上がる。「今開けますね」

ディーデの笑顔を目にして、心からほっとする。それと同時に不思議に思った。いつもドアの外から声をかけてくる彼が部屋に入ってきたのは、今回が初めてだったからだ。

「ごめんね、遅くに」
「いえいえ、全然」メイはデスクの椅子を引っ張り出して彼に勧め、ベッドの上に腰を下ろす。「セッションは終わったんですか?」
「お陰様で」ディーデは会釈して椅子に座りつつ、肩をすくめる。「今日は良さんの許可貰って22:00まで時間を延長したけど、参加者が多かったから上手く順番を回せなくてね。また一つ課題が出来ちゃった」
「ああそうだ、すみません。演奏聴かせていただいたのに、ご挨拶もせずに帰ってしまって」
「いいって、謝らなくても。そういうの気にしないでね」
「ディーさんのベース、めちゃくちゃ上手くて。びっくりしました」
「ありがとう。メイくんに褒めて貰えるなんて、ほんとに嬉しいよ」彼は、照れたように笑った。「ジャズはまだ勉強中だから、あのくらいのことしか出来ないけどね。ジョシュさんがいろいろ教えてくれるお陰だよ」

あのくらい・・・・・?とメイは心の中で反芻したが、顔を合わせて話しているせいか、直後のような嫉妬心は嘘のようになくなって、純粋に尊敬の念だけが湧いていた。彼が謙遜や牽制ではなく、本気でそう思っていることがわかったからだ。

「あっ、これ、ノアさんの楽器でしょ?」彼は、ベッドの上のエレキベースを指差した。「ボクが預かったやつとは違うけど」
「そうなんですよ。良さんから伺ったんですが、凄く高い楽器らしいですね?」
「そうそう、あの人日本に来るたびハイエンド買ってるから。お金持ちなんだろうなぁ」
「そんなのをぽーんと貸して貰って。いいのかなって思いながら練習してます」
「そう言えば、明後日初心者向けのジャムセッションがあるから、その時までに2曲ぐらい仕込んでおくといいよ。ネット使えば譜面も音源も、幾らでも見付かるからね」
「わかりました」
「メイくんは安静期間でたっぷり時間があるんだし、尻込みしてる時間が勿体ないよ。人生は思ってるよりもずうっと短いんだから」


ディーデの思い掛けない言葉に何となく引っ掛かるものを感じた彼は、浮かんだ疑問を素直にぶつけてみる。

「ディーさん、あんなに上手いのに。どうしてプロとして活動することを諦めたんですか?」
「まあ、いろいろ理由はあるけど。一番は、弟のことかな」
「弟さん?」
「そう。ボクの実家はアムステルダムでも結構裕福な方だったんだけど、10歳の時に両親が離婚して、それからはどん底でね。ボクは幸い、子供の頃から師事してた先生の推薦で奨学金いっぱい貰えたから、音大行ったり留学したり、結構好きにやらせて貰って。プロになってからもずっと、母と弟が働いて、ボクをサポートしてくれてたんだ」
「ええ」
「5年前かな、やっと休暇貰って実家に帰った時、弟が何もないところでいきなり転ぶのが気になって。大丈夫だって言い張るのを無理矢理病院に連れてったら、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病って診断されて」
「えっ?」
「脳細胞が徐々に死滅していく、致死性の難病でね。余命3ヶ月って言われたのに、結局1年半生きてくれて」彼は淡々と話しながら、膝の上で長い指を組む。「入院した当初は錯乱して暴れたりして、母1人に任せてられない状態で。仕事を最小限ミニマムに減らして、出来る限り傍にいたんだけど、何が起こっているのか理解出来ないまま、体がどんどん動かせなくなっていくから。意識があるうちは酷く怯えて、ずっと泣いててね。本人も怖かっただろうし、看てるこっちも、抱き締めたり慰めたりする以外に何もしてあげられなくて。ほんとに辛かったよ」

メイは適切な言葉を思いつけないまま、正面から彼を見詰めていた。その視線に気付いたディーデは、少しだけ微笑んで見せた。

「弟とは2歳違いで、本当に仲がよかったんだ。まだ26歳の若さで、まさかそんな形で失うことになるなんて思いもしなくてね。彼が亡くなったあと、自分だけ華やかな場所でちゃらちゃら遊んでる気になれなくて、たまたま副業でやってた翻訳の仕事が軌道に乗って、日本の会社から正式にお呼びオファーが掛かったタイミングで、思い切って辞めちゃったんだ」
「そうだったんですか」メイは、何とか言葉を絞り出す。「すみません、余計なこと伺って。思い出すだけでも辛いでしょうに」
「大丈夫だよ。もう心の整理もついたし」彼は、にっこりした。「しばらく辞めてたけど、プロやってたこと知ってる人達がみんな勿体ながって、フリーランスになるよう勧めてくれて。そのお陰でいろんな人と一緒に演奏出来るようになって。今はとっても楽しいよ」
「それは、聴いてて凄く感じました」
「ほんとに?そう言って貰えると嬉しいなぁ」


(昔楽器やってたって言う人の中には、めちゃくちゃ嫌な思いして辞めた人も、事情があって諦めた人もいっぱいいるんだから)

ここでまた、メイは良の言葉を思い出す。そうだよな。今の俺みたいに、皆それぞれ事情を抱えて、音楽から離れたり、続けることを諦めたり。それでもディーさんやジョシュみたいに、違う形でもう一度この世界に戻って来て、プロ顔負けのプレイを聴かせられる人もいるんだ ────


「あっ、ごめんね。長居しちゃって」ディーデは、壁の時計を見て立ち上がる。「メイくんと話すと止まらなくなっちゃうなぁ」
「いえいえ。俺も、もっとお話したいくらいです」
「今度もし休みの予定が合ったら、何処か遊びに行こうよ。彼女にも紹介したいし」
「いいんですか?」
「いいよ、勿論。ボクと一緒だと大抵、楽器屋巡りみたいになっちゃうけど」
「大歓迎ですよ。いろいろ教えてください」
「えっ?ボクがメイくんに教えられるようなこと、あるかなぁ?」
「いっぱいありますよ?」
「例えば?」
「どうしたら、ディーさんみたいに上手くなれますか?」
「なるほど。ええと、そうだねぇ」

彼は腕組みして、長い時間真剣に考え込んでいた。その仕草から、メイは彼の生真面目さと誠実さを感じた。こういうところもちゃんと、ディーさんの演奏に反映されていたな。


「 ──── その質問、誰に訊いても恐らく練習practiseって答えが返ってくるだろうけど、ボクの意見はちょっと違うんだ」彼は、右手の人差し指を立てて見せる。「生身の人間と一緒に演奏する機会を増やすこと。上手い人は勿論、そうじゃない人達ともね。要するに、現場でなるべく経験を積むってことだけど。それが一番手っ取り早いよ」




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