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健やかなる時も① 100

その事実を知って。
僕は一度、手を止めた。
思い出したのは、有賀が沖縄で空爆に散ったあと。
山本が見せた涙と、深い悲しみ。

──── ああ。
そういうことだったのか。

言葉を失って、その場に立ち尽くしながら。
僕もまた、有賀のことを思う。
山本と同じように。



僕と違って有賀は、子供の頃から穏やかな性格で。
級友の輪に溶け込みながらも、余計な口は挟まずに。
にこやかに相槌を打ち、気の利いた冗談を言い。
何処か、一歩引いて周囲を見守っているようなタイプだった。
けれど。
誰かに何かあった時。
それは大抵、僕であることが多かったのだが。
例え自分に不利益があろうとも。
文字通り身を挺し、あらゆる手段を尽くして、相手を救おうとする。
有賀の誠実さと、有言実行を地でいくところに僕は惹かれて。
正義感と寛容、聡明さと優しさに憧れていた。
それがいつの間に、こんなことになったのだろう?



ロッカーの中の白衣を、そっとハンガーから外し。
それを手に取って眺めてみる。
恐らくこれは、あの事件の前に着ていたものだろう。
彼の任期は、僕と同じ9月までで。
思いがけず負傷して、急遽帰国することになったからだろう。
でなければ。
几帳面な有賀が、返却を忘れる訳がない。

顔を近付けると。
消毒液と太陽の匂いに混じって。
微かに、彼の匂いがした。
途端。
あの日の出来事が、フラッシュ・バックする。
彼がクウェートを離れる当日。
病室で、最後に言葉を交わした時の記憶が。



簡単な挨拶のあと。
有賀は、ベッドの上で僕を抱き締めて。
長い時間、抱擁を解かなかった。
まるで、今生の別れであるかのように。
だから。
彼には言えなかったけれど。
言わなかったけれど。
あの時、僕は酷く不安だったのだ。
こんな風に抱き合ってしまうと。
もう二度と、彼と会えないのではないか。
彼が、何処かへ行ってしまうのではないか。
僕の手の届かないところへ。
何故か、そんな予感がしたからだ。


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