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74.

ジョシュアのあとに続いたディーデのソロもまた、素晴らしいものだった。8分音符を駆使したメロディアスなフレーズ、どれほど指板上を跳んでも・・・・一切ブレることのない音程の良さは、鍵盤でも弾いているのではないかと思うほどだ。幼少期からクラシックを弾きこなしてきたヨーロピアン特有の完璧な楽器のコントロールに、彼は目を見張るしかなかった。高音ハイポジのピチカートも音が痩せることはなく、1音1音が輪郭を伴ってはっきりと聴こえてくる。高倍音を含んだリッチな音色おんしょくは、失礼ながら、安物の国産コントラバスから発せられる音とは到底思えない。

ソロの後半、ディーデがテーマのフレーズを用いてジョシュアに返すと、彼は鍵盤に視線を落としたまま初めて笑顔を見せ、そのままテーマを弾き始める。最初のテンポから走るrushingことも遅れるdraggingこともなく、最後までアクセルを緩めることもなかった。凄い、と、メイは心の中でうなった。それ以上の感想が思い付かない。


エンディングまできっちり弾き終えたジョシュアが鍵盤から指を離した直後、大歓声と拍手とが同時に湧き上がる。ディーデは観客に向かって軽く一礼し、微笑みつつマイクを手に取った。あれだけの速さの曲を演奏していたのに、息ひとつ上がっておらず、汗ひとつかいていない。

「1曲目、Tempus Fugitでした。じゃあ次は、ゆっくりのをりますね」
「手加減しろよお前等。最初からこんなの聴かされたら、みんなやる気なくなるじゃねえの?」

いつの間に来ていたのか、背後から徳田の声がした。客席から笑いが起こったタイミングで、彼はドラムセットに向かい、チューニングキーを取り出す。

「で、2曲目は?」
「スローのワルツ」ジョシュアは、2人に向かってにっこりした。「徳さんの準備が出来たら始めるよ」
「俺は適当に入るから」スネアのチューニングをしながら、徳田は答える。「お先にどうぞ」


再び客席が静まり返った頃合いを見て、ジョシュアは鍵盤に指を下ろす。最初の数音で、メイはその曲が何であるかをすぐに察した。ビル・エヴァンスのB Minor Waltz ──── 彼の心変わりの末に別れ話を持ち掛けられ、NYの地下鉄に飛び込んで自死した内縁の妻、エレインに捧げられた曲だ。

さっきまでの演奏とはうって変わった抒情的リリカルなバラードに、再び全身に鳥肌が立つ。よりによってどうしてこの曲を選んだんだ・・・・・・・・・・・・・、と、メイは思わずにいられない。彼から聞かされたエリックの壮絶な最期が、今、目の前で奏でられている曲の背景とどうしても重なってしまう。


徳田はその強面こわもてな見た目とは裏腹に、ワイヤーブラシを用いたスネアロールと繊細なシンバルワークで、全体の空気感をコントロールし、出しゃばることなく2人のサポートに徹している。一発目のストロークからしてすでに、プロのサウンドだ。
ジョシュアの静謐なピアノに寄り添うように、ディーデはしっかりとボトムを支え、絶妙なタイミングで旋律的伴奏オブリガートを挟む。ベースソロにはよく使い込まれたフレンチボウを用いて、丁寧にフレーズを奏でていく。ディーデのソロは知的で、優雅で、まるで歌っているようだったが、しかし決して甘くなり過ぎない。その音選びとセンスの良さに、彼は文字通り言葉を失った。
メイは同業者として、そして純粋に聴衆リスナーとして、その出音でおとの美しさと彼の中にある"歌"に激しく心動かされていた。ジュリーニョが8年掛けて自分に教えてくれたものの殆どをディーデは理解し、完全に会得して、しかも自由に使いこなせている。そんな敗北感にも似た確信と共に、メイは再び、ジョシュアの言葉を思い出す。

(逆に、とんでもないやつと出くわすこともある。ボスは勿論、ディーさんやパイさん、徳さんや李くんも、見た目あんな普通で優しい人達だけど、音出すとまるっきりレベルが違うからな)

とんでもないのレベルが違うよ、と、メイは思った。一体何なんだ、この人達は。こんなに音楽的センスに溢れてて、これほど卓越した技術を持ってて。ディーさんなんか、元プロ・・・の俺ですら敵わないと思うくらい上手いのに。どうしてこんな凄腕の人達が、表舞台に出て来ないんだろう?


頬を伝う涙に気付いていながら、メイはステージから目を離せずにいた。悲しい過去から生み出された切ないバラードを、ジョシュアは敢えて感傷的エモーショナルな要素を排し、意識的に突き放して弾いているように思えた。その抑制が逆に、易々と心の奥深くを抉ってくる。
目の端で見ると、左隣に座っている若い白人女性も、指先で涙を拭い続けている。泣くよそりゃ、と、メイは思った。こんな凄い演奏聴かされたら、誰だって ────


ディーデの歌を引き継ぐ形で、ジョシュアがテーマへと戻る。石嶺と同様に歯切れのよいタッチ、バラエティに富んだアーティキュレーション、ダンパー・ペダルの使い方まで完璧だった。ピアノから放たれた最後の残響が余韻を残して消えた直後、先程とは比較にならない規模の拍手と大歓声が巻き起こる。たった2曲なのに、コンサートのプログラムを全て聴き終えた気分だった。


はっと我に返ったメイは、掌で乱暴に顔を拭って席を立つ。根を詰めて聴いていたせいで、iPhoneとApple Watchのバイブレーションにさえ気付かなかったのだ。

人混みを掻き分け、防音ドアを開けて外に出る。案の定、祥からの着信だった。

「 ──── もしもし?」
「何やってんだよ、お前!何かあったのかと思ったぞ?」
「ごめん。ちょっとばたばたしてて」
「だったらいいけど。無事に着いたらLINEぐらい入れとけよ!」
「そうだよね。ほんとごめん」
「どうした?涙声だな?」
「何でもないよ」メイは必死に、感情を抑える。「大丈夫」
「大丈夫とは思えねえけどな」
「今度会った時、詳しく話すよ」
「まあいいけど、復帰の話はどうなった?皆に白状カムアウトしたか?」
「近いうちにしようと思ってたけど ──── 何か、自信なくなって」
「何言ってんだ、今更?」
「駄目かもしれない。祥ちゃんと別れた時はほんとに、泣き言言わずに頑張ろうと思ってたんだけど」
「またかよ?どうせ誰か上手い奴の演奏でも聴いて落ち込んでんだろ?」

鋭いところを突かれて、メイは押し黙る。察したかのように、祥は言葉を繋いだ。

「お前は子供ガキの頃からそうだからな。自己評価が低くて、打たれ弱くて」
「俺なんかがプロになれたのが、そもそもおかしかったんだよ。世の中には俺より上手い人がいっぱいいるんだから」
「あのなぁ。ジュリーニョにも散々言われたろ?お前にはアートの星があるって。One and onlyだって。もっと自信持てって」
「そう思って、何とかやって来たけど。今度こそ、ほんとに駄目みたいだ ────」
「ったく、情けねえな。お前が諦めたら、ジュリーニョの遺志は誰が継ぐんだよ?」
「彼に師事していないのに、彼に教わったように弾ける人に、たった今ったんだ。だからもう、そんなの ──── 」

話している途中で突然、背後から抱き締められた。左手首のG-SHOCK、ふわりとまとわるブルガリのトワレ。ジョシュアは両腕に力を込めながら、耳元で囁いてくる。

「ちょっと、代わって貰っていいか?」
「えっ?」
「兄さんだろ?」
「あ、うん。でも ──── 」

ジョシュアは有無を言わせず、メイにiPhoneを持たせたまま、通話画面のスピーカーをタッチする。

「初めまして。割り込み失礼」
「ああ、あんたか。アメリカ人」祥は、流暢な英語に切り替えて話す。「メイに何かしたのか?」
「セッションに誘ったんだが、ちょっとショックを与えてしまったみたいでな。俺が責任持ってケアするから、心配しないでくれ」
「大切な弟なんだ。次泣かせたら、あんたを合法的に殺すからな」
「Yes, sir。どんな罰でも喜んで受けるよ」
「とにかく」祥はやや口調を和らげ、溜め息をつく。「無駄に興奮させないでくれよ?そいつほんとに、些細なことでどうなるかわからない体だから」
「了解」
「メイに代わってくれるか?」
「ああ、勿論」

ジョシュアはスピーカーを切り、腕を解いて離れた場所に立つ。メイは少し畏まって、祥に話し掛ける。

「悪い人じゃないでしょ?」
「いや、やっぱり気に食わねえ。何様だよ?」
「そういう言い方。俺のこと、いつも気にかけてくれる人なんだ」
「そこも含めて気に食わねえんだよ。気に食わねえけど ──── 頼りにはなりそうだな」
「うん」
「やっていけそうか?」
「何とか。祥ちゃんと話してたら、少し落ち着いたし」
「俺じゃなくて、そいつのお陰じゃねえの?」
「そんなことないよ。忙しいのにありがとう」
「まあとりあえず安心したから。手術オペ室戻るわ」
「ごめん、ほんと」
「謝らなくていい。何かあったら、必ず連絡しろよ?」
「わかった」
「なあ、メイ。自信持てよ?」祥は、小声で続ける。「敵は他人じゃねえ。お前自身の弱さだ。まずはそれに打ちたねえと、復帰どころの話じゃねえぞ?」
「祥ちゃんの言う通りだよ。自分でもそんなこと、わかってる筈なのに ──── 」
「お前の評価は、お前自身が下すもんじゃねえ。他人がつけるもんだ。そんなのは、ちゃんとした仕事続けてりゃ、自然とついてくるんだ」
「そうだよね」彼は、目を伏せて頷いた。「そう信じて、やるしかないよね」




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