214.
「 ──── 結局、撮影会になっちゃったな?」
「ですね。でも、楽しかったです」
「前から思ってたけど、瞬くんって子供さん撮ってる時は、ほんとにいい顔してるよね?」
「そうですか?」
「うん」銘は頷きつつ、やや冷めたカップに口をつける。「ずっと笑顔だし。だからお子さん達も、いい表情になるんだろうな」
「そこだけは師匠にも褒められたんですが。撮ってる時って、自然とそうなっちゃうんですよね」
「子供、好きなんじゃない?」
「それもあります。どんな子もみんな、ほんとに可愛くて、可愛いなぁ、いい子だなぁ、って思いながら撮ってるので」植え込みの隙間から神宮通りを眺めつつ、瞬は微笑んだ。「それでも、お母さん達が撮る写真には敵わないですけど」
「昔星おじさんが言ってたけど、逆に、他人だからというか、プロの写真家だからこそ引き出せる表情とか、切り取れる瞬間っていうのもあると思うんだ」
「そうですね。俺もそれを信じてシャッター押してるようなところあるので」
「瞬くんは優しいし、穏やかだし、よく気が付く人だから。いいお父さんになると思うよ」
「沖縄でもそう言って貰えたんですが。銘さんだから言いますけど、俺、子供どころか、結婚する気もなくて ──── 」
「えっ、そうなの?」
「正直、出来る気がしないんですよ。子供を抱いてる自分の姿がどうしても想像出来なくて。もしこの先、俺でもいいって言ってくれる人が運良く現れたとしても、どう付き合っていったらいいのか、全然自信がなくて。ぶっちゃけ、家族を持つっていうこと自体、怖くて仕方ないんです」
「それは、 ──── 自分が虐待サバイバーだから?」
「それもあります。おふくろの狂気が、俺に遺伝してないって保証はないですし」彼は頬に落ちかかる長い後れ毛を掻き上げ、頷いた。「でも、それ以上に、自分はまだ若いし、未熟だから。今も自分のことだけで手一杯で、そんなことを考える余裕がないんです」
暖かな日差しの下を行き交う大勢の人々、通り過ぎる車が醸しだすざわめきの中、テラス席の左奥に並んで座りながら、銘は彼のそんな言葉にどう答えていいのかわからなかった。だよな。瞬くんはようやくフォトグラファーとして売れ始めて、今が一番大切な時期なんだし。他人のことなんか、考えてる余裕はないよな ────
「カメラって、武器なんですよ。普段の俺は陰キャなコミュ障で、なるべく人と関わらずに生きていきたい方なんですけど」彼はテーブルの上にあるR6を両手で包み込み、それに視線を落としたまま言葉を繋ぐ。「これを持ってる時だけは別なんです。ファインダーの向こう側の世界は現実とはまるで違って見えて、だから、どんどん積極的になれて、何処まででも突っ込んでいけて。真尋くんにもよく、人が変わるって言われました」
「ああ、それはわかるなぁ。俺も普段はこんなだけど、ベース弾いてる時だけは無敵になれる気がするから」
「いや、そんな」瞬は、思わず苦笑する。「銘さんは普段から凄い人ですよ?」
「そう?」
「そうですよ」
「結構ぽんこつだと思うけどな?自分でも」
「そんなことないですよ」
「だといいけどね」彼は、軽い溜め息をつく。「それで、これからどうしようか?何処かで昼飯食ってく?」
「手ぶらならいいですけどね」瞬は肩を竦め、自分の右脇にあるハードケースを見下ろす。「高価な楽器を持って人通りの多い場所をうろつくのはさすがに、心臓に悪いです」
「ああそっか。それがあるのをすっかり忘れてたよ」
「ちなみに、銘さんのご予定は?」
「今日は何もないよ。看病ついでに、瞬くんの家に入り浸ろうと思ってたし」
「えっ?そうなんですか?」
「そうだよ」銘は、きょとんとして彼を見る。「迷惑なら、帰るけど」
「いや、そんな ──── 迷惑なんてこと、ある訳ないじゃないですか?」
「そう?」
「そうですよ」
「でも何か今、困った顔したじゃん?」
「そんなことないです。ちょっと、びっくりしただけで ──── 」
「じゃあ、一旦うちに楽器置いて、適当に材料持って。一緒に三田まで帰ろうか」
「ああ、はい。すみません」
「そう言えば、仕事の方は大丈夫なの?現像とかレタッチとか」
「大丈夫です。あとで纏めてやるので」
「俺がいたら邪魔かな?」
「そんなことないです ──── ていうか、俺の夢だったんですよ、こういうシチュエーション」
「夢?」
「銘さんと知り合って、写真を撮らせて貰うようになってから。お会いするのってお店の中とか、夜中とかだったじゃないですか?」
「ああ、まあね。仕事柄どうしてもそうなるから」
「一度でいいから明るい時間に、光の中にいる銘さんを撮りたかったんです。それが、俺の夢で ──── 」
「夢だなんて、随分大袈裟じゃない?」銘は思わず、笑ってしまう。「そんなの、いつでも。言ってくれれば ──── 」
そう言いかけた銘は、はっとして口を噤む。瞬は右手で乱暴に目を擦り、微かに洟を啜った。
「 ──── すみません。何か、銘さんとこうしていられるのが嬉しくて。嬉し過ぎて、ほんと、昨日から胸が一杯で」彼は懸命に、明るい声で答える。「すみませんほんと。気持ち悪いですよね?」
「そんなことない ──── 」銘は我慢出来ずに、右腕で彼を抱き寄せる。「そんなことないよ」
人目につかない席で、銘は酷く長い時間、彼を両腕でしっかりと抱擁し続ける。思い掛けない展開に動揺しながらも、瞬は、その温もりに心も体も融かされていくのを感じていた。ああ、そうだ ──── この人のこういうところを、俺は好きになったんだ。俺だけじゃなく、誰に対しても銘さんは優しくて。だからもう、友達でいい、いや、友達でいられるだけで、本当にありがたいよ。俺が身の程を弁えずにまたそれ以上のことを望んだら、俺は今度こそ、地獄に落ちるよ ────
車に楽器を積み込んで芝浦へ向けて走り出してから、2人は殆ど会話を交わさなかったが、以前とは違い、長い沈黙がやけに心地良かった。プラドのステアリングを両手で握り、真っ直ぐに正面を見据える青年の美しい横顔をそっと盗み見ると、銘はすぐに気付いてちらりと彼を眺め、サングラス越しに微笑んでくる。そんな仕草のひとつひとつに心を奪われながらも、瞬は酷く安心して、革製のシートに体を預ける。ああ、ほんとに ──── このまま時が止まってくれたら、この人を永遠に独占出来たなら。どんなにいいだろう?
Riotの地下駐車場に一旦車を入れ、銘の帰りを待っている間に、スマートフォンにはどんどん通知が飛び込んでくる。大半は仕事の業務連絡で、瞬はあとで纏めて返信しようとざっと概要を眺めたのだが、その中に、どうしても無視出来ないものがひとつだけあった。
真尋【瞬さん、お疲れ!】
真尋【今回の写真集、超いい出来で】
真尋【すぐ増刷になるって話だよ】
真尋【それはいいんだけど】
真尋【瞬さんが今回限りで降りるって、さっき渡嘉敷さんから聞いて】
真尋【すげえびっくりしたんだ】
真尋【それってガチな話?本気で言ってる?】
真尋【ひょっとして、沖縄の件気にしてるとか?】
真尋【だとしたら、俺的にも事務所的にも何の問題もないよ】
真尋【もし忙しいならスケジュール瞬さんの方に合わせるし】
真尋【スタッフが気に食わないとかなら何とかするし】
真尋【報酬が割に合わないとかでも、俺に直接相談してくれれば】
真尋【なるべく瞬さんのいいようにしたいんだ】
真尋【俺は個人的に瞬さんの写真大好きだから、また一緒に仕事したいし】
真尋【瞬さんに撮ってほしいから】
真尋【もう一回考え直してくれない?】
彼の声が聞こえてきそうな文面を何度も目でなぞりながら、瞬は溜め息をつく。真尋くんとの仕事は俺も大好きだし、現場も凄く楽しくて、出来ればずっと続けていたかったよ。でも、俺はしばらくの間、少なくとも銘さんが落ち着くまでは、東京から離れたくないんだ。単なる我が儘だってわかってるし、その結果、どれだけのものを失うことになるのかわからない。それでも今は、あの人の傍にいて。あの人のことだけ、考えていたい ────
「 ──── お待たせ!」
突然背後から銘の声がして、彼はスマートフォンを取り落としそうになる。そんな様子に、銘は首を傾げた。
「どうしたの?何かあった?」
「いえ、何でも」彼は慌てて微笑み、その手元を見る。「あ、持ちますよ?」
「いいって、車で移動するから」銘は後部座席に荷物を置くと、運転席に乗り込んでエンジンをかける。「ほら、乗って!」
「ああ、はい」
「言うの忘れてたけど、休みの日でも急ぎの連絡とかあるだろうし、スマートフォンいじってていいよ。俺はそういうの、全然気にしないから」
「あ、はい。すみません」
瞬は会釈して、パーカーのポケットからスマートフォンを取り出す。前から思ってたけど、どうしてこの人はこんなに鋭いんだろう?
瞬【真尋くん、お疲れ様です】
瞬【俺なんかにはもったいないくらい、気を使わせてしまって】
瞬【ご迷惑おかけして本当にすみません】
瞬【今回辞退したのは、そちらの待遇に不満があるとかそういうことではなくて】
瞬【完全に俺個人の事情なので、どうか気にしないで下さい】
瞬【東京に戻って来たら一度、ご連絡下さい】
瞬【直接お話した方が早いと思うので】
瞬【お忙しいでしょうが、宜しくお願いします】
数秒も立たずに既読になり、すぐに返信が来る。
真尋【了解!あー、よかった!返事来て!】
真尋【いやマジで焦ったよ!瞬さんに嫌われたのかと思って!】
真尋【今じいちゃんが実家来てるんで】
真尋【木曜、一緒に東京へ帰る予定です!】
真尋【無事戻ったら連絡します!】
エクスクラメーションマークだらけの返信を見て、瞬はますます申し訳ない気持ちになる。真尋くんの方こそ今は一番忙しい時期で、自分のバンドの活動の他に、ドラマや映画、CMの撮影も入っているから、秒刻みのスケジュールに追われて、息つく暇もないだろうに。俺みたいなぽっと出の人間を気に入ってくれて、勿体ないくらい重用してくれて。真尋くんを撮りたいカメラマンなんかそれこそ、掃いて捨てるぐらいいるのに ────
再び三田のアパートに向かい、隣接した駐車場に車を止めたあと、銘は瞬に続いて古びた階段を上がり、彼がドアの鍵を開けるのをしげしげと眺めていた。その視線に気付いた瞬は、不思議そうに尋ねる。
「 ──── どうしました?」
「いや、何か。初めて彼氏のアパートに来る彼女の気分だなって」
「何仰ってるんですか?」ドアを開けながら、瞬は呆れた顔をする。「彼女いない歴イコール年齢の俺と違って、銘さんは百戦錬磨でしょう?」
「そんなことないよ」
「また、嘘ばっかり!」彼は靴を脱ぎ、スリッパを出す。「高校時代の彼女さんも、超絶美人だったでしょう?」
「お邪魔します! ──── あれ?その話、瞬くんにしたっけ?」
「いろんな人から聞いてますよ。有名だったみたいだし」
「お互い自宅住みだったからね。公認の仲ではあったけど」話しつつ、台所に向かう。「彼女の家は東京品川病院の近くで、窓から来福寺が見えたんだ」
「ってことは、東大井ですか?」
「そうそう」冷蔵庫に食材を入れながら、彼は答える。「よく知ってるね?」
「学生の頃、勝島運河まで撮影に行ったことがあって」瞬はカメラをテーブルの上に置き、ノートパソコンを開く。「あの辺を一通り歩きました」
「なるほど」
「どうして別れちゃったんです?」
「亡くなったからね。俺と同じ病気で」銘は、他人事のように答える。「まだ17歳だったよ」
思い掛けない言葉に、瞬は手を止める。ああ、そうだった ──── ジョシュさんから聞いてたのに、俺としたことが!
「 ──── あっ。すみません…」
「いいよ、気にしないで。俺の中ではとっくに整理がついてることだし、そのことを吹っ切りたくてアメリカに渡ったってのもあるから」銘は穏やかに話しつつ、奥の和室へ戻ってくる。「で、どうしよう?飯にする? ──── あ、先に仕事する?」
「いえ、とりあえずデータを取り込んでおこうと思っただけなので」
「そっか。じゃあ、シャワー借りようかな」
「あ、はい。どうぞ」瞬は立ち上がり、浴室へと向かう。「うち、バランス釜なんですが。使い方わかります?」
「勿論!神楽坂のアパートも、要の家もこれだったし」
「要?って、 ──── ああ、EVIDENCEとAfro Blueでバイトしてる、銘さんの幼馴染みですか?」
「そうそう。あいつのご両親もほんといい人で、おふくろが留守がちなの知ってて、自分の子供みたいに俺を可愛がってくれて」銘は言いつつ、彼の着ているシャツの裾に両手をかける。「3人育てるのも4人育てるのも一緒だって言ってね」
「はっ?」瞬は驚いて、彼を見る。「あの、何を ──── 」
「どうせだから、一緒に入ろうよ」
「あ、でも。うち、銘さんとこと違って狭いんで!」
「シャワーなら立ってするから、大丈夫だろ?」
「いや、まあ、そうですけど ──── こういうの、まずくないです?」
「何がまずいの?」
「だってもう、友達だか ──── 」
言葉の途中で首を強く抱かれ、強引に唇を塞がれる。予想外の事態に、瞬は激しく混乱する。えっ、ちょっと待って ──── 何が起こってる?これって、夢の続きなのか?
突然の口づけのあと、銘は長い睫毛を伏せ、彼の額に額を押し当て、鼻先を触れ合わせ、穏やかな口調でこんなことを言う。まるで以前から、そうしようと決めていたかのように。
「 ──── もういいよ。やめよう」
「やめるって、何をです?」
「瞬くんが倒れた時、俺、本気で動揺して、演奏に支障出そうになったくらいで。ああ、もう、俺にとって瞬くんは特別な存在で。ただの友達には戻れないんだなって、あらためて思ったんだ」
「 ──── えっ?」
「さっきもそう」銘は彼を正面から抱き締め、左耳に囁く。「俺のせいで、瞬くんをずっと苦しめてるような気がして。心が痛かったんだ」
「いや、そんな。それは、俺が勝手に銘さんのこと、好きになっただけで ──── 」
「ジョシュと正式に切れてない状態で、瞬くんとこんな風になるの、ほんと、不誠実だと思うんだけど。もし、それでも構わないなら ──── 」
彼のそんな一言一言が瞬には信じられず、何度もその台詞を頭の中で反芻する。生まれて初めて好きになって、死ぬほど憧れ続けていた人が、今、俺をこうして抱き締めて、可能な範囲で、精一杯言葉を尽くしてくれている。いや、でも、突然そんなこと言われても、俺には冗談としか思えないよ。こんなことが現実に、俺の身に起こるなんて。銘さんが俺のこと、受け入れてくれるなんて ────
「ほんとはさっき、したかったんだよ」銘はくすくす笑い、目を閉じる。「さすがに人目があるよな?って、なけなしの理性が邪魔したんだ」
「嘘でしょう?」
「ほんとだって。俺、泣かれると弱いんだ」
「それで、前回も情けをかけてくださったんです?」
「情けって?」
「NEMESISへ行った夜。テキーラショットを使った賭けをしたじゃないですか?」
「ああ、そういやあったな。そんなことも」
「あの中身、どっちも炭酸水でしたよね?テキーラのボトルは未開封のままだったし ──── 」
瞬がそう言うと、銘は彼を抱き締めたまま、肩を揺らして笑い始める。それで瞬は、あれが彼なりの気遣いであり、計略であったことを確信した。
「あはは、ごめんごめん!バレてたか!」
「やっぱり!気付いたのは俺じゃなく、奏くんでしたけどね?」瞬はがっくりを肩を落とし、溜め息をつく。「ていうか銘さん、その直前に、ジョシュさんと別れたとしても、もう誰とも付き合うつもりはないって仰ってましたよね?」
「言ったけど、気が変わったよ」
「えっ?」
「誰かさんがあんまり一途だから。さすがに ──── 」
「根負けした?」
「まあ、そんなところ」
「同情したんじゃなくて?」
「正直、ない訳じゃないよ。でも、それ以上に、瞬くんのことほっとけなくなってきて ──── 」
「俺は逆に、銘さんのことほっとけないと思ったんですけどね?」
「だよな、申し訳ない。俺の方が年上なのに」銘は観念し、頷いた。「でも俺、いい加減で気紛れだから、また瞬くんのこと泣かせるだろうし、傷付けるだろうし。きっとこれまでよりずっと、辛い思いさせると思うよ?」
「いいですよ、そんなの。何度でも ──── 」
屈託のない笑顔と明るい声に、心は再び揺れ動いたが、銘はその不安を黙殺し、あらためて唇を重ねる。なあ、ジョシュ ──── 俺は間違ってるし、このことをいずれ、きっと後悔することになるだろうな?そんなのはわかってる。全部わかってるよ。でも、それでも、俺のため、俺なんかのためにこれ以上、この優しい人を苦しめたくないし、いいように利用したくはないよ。彼が彼なりのリスクを背負ってまで俺の傍にいてくれるなら、俺もそれ相応の覚悟で応えたい ──── いや、応えなきゃならないと思うんだ。
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