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健やかなる時も① 121

「 ──── 全く、何をやってるんです!」

「すみません、うっかりしてて。ちょっと風が強かったもので…」

「今後、屋上での喫煙は禁止ですよ!ちゃんと屋内の喫煙所を使って下さいね!」

「了解しました」

吉沢二曹の剣幕に、思わず苦笑しながらも。
僕の意識は、別の場所にあった。
さっきまでのことを思い出すと、嫌でも胸が熱くなり。
平静を装いながらも、心は激しく揺れている。
あと2週間。
彼の言葉ばかりが、頭の中に反響し。
唇にはまだ、荒々しい接吻の感触が残っている。

どうしてこんなことになるんだ?
何故、ノーと言えなかった?
そう思いはするけれど。
もし彼とそうなるのなら、これもまた運命だなと。
半ば諦めている自分もいた。
いや。
諦めているというより、逆らえずにいると表現した方が適切だろうか ────



「 ──── 穂積一尉!聞いてるんですか?」

電話の向こうから怒鳴られて。
僕ははっと我に返る。

「あ、はい。聞いてます」

「全くもう。しっかりして下さいよ!」

「そうですね。申し訳ありません」

吉沢二曹は、埼玉出身の40歳。
各種のメンテナンスに関しては、トップクラスの腕前を持っており。
下士官の中でも、一目置かれている存在だ。
世間では、意外と知られていないけれど。
大学校出たての士官はいきなり、自分より年上の部下を持たされることもしばしばで。
彼等にしてみれば僕等など、単なるヒヨッコでしかなく。
尉官といえども、現場叩き上げのベテランに敵う筈がない。
日本へ戻ればそれこそ、レイチェルレベルのチーフがごろごろいて。
二尉だろうと一尉だろうと、容赦なくしごかれるのだ。












この日も何もなし。
クウェート市立病院が落成して以来、一時受け入れをしていた患者も全て移送され。
静かな院内を見回りながら、夕方と夜のアザーンを聞く。
医者が暇なことは、確かにいいけれど。
1年間慣れ親しんだ場所を離れることに、やはり寂しさを感じる。
窓の外には、今にも消え失せそうな三日月が出ていて。
あと3日もすれば、新月になる。

147がここへ搬送されてきたのが、5月26日の夕方。
次第に欠け始めた美しい月が、空にかかっていたのを覚えている。
今は9月。
何もなければ、僕がここを離れるのは14日の予定だから。
もう二度とこの地で、月が満ちるのを見ることは出来ない。
そう思うと、何だか不思議な気がした。


受け入れから1週間後。
意識が戻るなり、"死にたい"と呟いた彼のことを。
身元を知る手がかりのない、奇妙な日本人のことを。
僕はずっと気にかけていた。
勿論最初は、1人の患者として。

僕の役割は、彼の治療をし、回復を見守ることで。
あとは米軍に任せてしまっても良かったのだ。
エリクソン中佐が言った通り。
それなのに僕は、彼のことが知りたくて。
無事に家に帰してやりたい一心で、各方面に情報を募り。
気付くと、こんなにも深入りしてしまった。
一銭の得にもならず、評価の対象でもないことを。
どうしてこれほど、一生懸命してきてしまったのだろう?
あんな人物をここに置いておくことで。
何れ、厄介事に巻き込まれると知っていながら。




悩んでも答えが出ないことを、延々悩み続けたり。 
考えてもどうしようもないことを考え続けるのは、性に合わない。
だから。
僕は溜め息をついて、147のことを頭から振り払う。
それからナース・ステーションへ行き、当直の看護官に外出すると告げ。
10kmほどランニングしたのちに、熱いシャワーを浴びる。
手早く髪を洗い、髭を剃っている最中。
不意に、147の言葉が甦る。


(離れる前に一度だけ ──── 君を、抱かせてくれないか?)


その言葉を思い出した途端。
つい、手元を狂わせた。

「 ──── …つっ!」

鋭い痛みと、伝い落ちる鮮血。
反射的に、傷口を指先で押さえながら。
ぼんやりと、鏡の中の自分を眺めていた。 
どうするつもりだ、仁?
進むのか、それとも退くのか。
カードは全て、お前の手の内にあるんだぞ?


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