健やかなる時も① 105
「 ──── 仁」
明け方前。
不意に、耳元で名前を呼ばれた。
穏やかな声。
でも、優じゃない。
その腕に再び抱かれ、唇を重ねている間。
僕はずっと目を閉じていた。
相手は、誰でも良かった。
小此木一佐だろうと、
147だろうと。
熱い肌の感触を味わい、獣じみた快楽に身を委ねながら。
僕は目を閉じたまま、優の姿を想像し。
彼のことを思い出す。
鍛え抜かれた体や、綺麗な顔立ちを。
僕の名を呼ぶ声を。
あの時交わした、一度きりの口付けを。
「 ──── 日本の状況は、如何でしたか?」
「酷いね。話にならん」
「……」
「上の連中は、現場のことなんかまるで考えてないからな」
「そうでしょうね」
「君が帰国したあと。来年の3月に、クウェートからの撤退が正式に決まったよ」
「えっ?」
「前回の空爆で吹っ飛ばされた市内の病院も、来月には完成するし」
「……」
「米軍と連合軍が駐屯してからは、ここの治安も安定しているし。これ以上の貢献も協力も不要だと」
「冗談でしょう? ゲリラは相変わらず暗躍していますし、毎晩のように市街地で銃撃戦があるっていうのに」
「……」
「毎日死傷者が出て、民間人が巻き込まれることも多い。これの何処が安定してるっていうんです?」
「俺も同じことを言ったよ。軍議の席でね。でも、連中は聞きやしない。国会が決めたことだからと」
「……」
「 ──── すまない。俺の力不足だ」
「いえ。そんなことは」
「吸うか?」
「はい」
窓際に立ち、全裸のままで煙草を吸っていた一佐は。
ラッキー・ストライクの箱を取り、ベッドまで歩いてくる。
それを1本抜き取って、火を点けている間も。
彼はじっと、僕を見詰めていた。
その視線が何となく気になりつつも。
会釈しながら、煙草を返す。
「 ──── どうしました?」
「いや。すぐに、普段の顔に戻ってしまうんだなと思ってな」
「……」
「どれだけ攻めても声も上げないし。全く、可愛げのない」
「よく言われます」
「そうか」
隣に腰を下ろしながら、彼は複雑そうな顔をした。
「君は、筋金入りのホモフォビアと聞いていたけどな」
「そうですけど。上官の命令は断れませんから」
「……」
「誤解なさらないで下さい。あなたのことは嫌いじゃない」
「知ってるよ」彼は、灰皿を取りに立つ。「君だけだからな。俺を名前で呼んでくれるのは」
「……」
「君より若い頃だが、同期に恋人がいたんだ。空自のパイロットでね」
「ええ」
「訓練中に墜落して。もう二度と会えなくなった」
「……」
「だから ──── 思い出すよ。君達を見ていると」
「君達?」
「有賀と、君のことだ」煙草を消しながら、彼は頷いた。「隠すことはない」
「隠してる訳じゃないです。何もありませんでしたから」
「そうか?」
「残念ながら」僕は、床に落ちた服を拾う。「こうなれたら楽だったんでしょうけど」
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