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157.

1:17。

「 ──── 結局あのカップルに、駅近のアパ取ってあげたんだって?」
「うん。せっかくの誕生日だしね。この辺にはラブホないから、新橋かどっかまで出なきゃいけないだろうし」
「うちだけでも結構な額になったのにな?学生の分、全額出してやることなくない?」
「大丈夫だよ。文句言うカミさんももういないし、そのために稼いでるようなもんでさ。この年になるとほんと若い子達が可愛くて、何でもしてあげたくなっちゃって」
「そりゃまあ、同い年だからわかるけど」彼女はBlu-rayレコーダーを操作し、CDをトレーに乗せる。「あんた学生ん時からほんとお人好しで、すぐ人に騙されるからさー」
「まあねぇ」西村ヨシは、遠い目をした。「歴代の彼女も元のカミさんも、やべー人ばっかだったし。さえにも心配かけたよ」
「いや別に、心配はしてねえけど?」
「だよねぇ」彼は、くすくす笑う。「でもさ、騙すより騙される方が楽じゃない?」


黒光りするフローリングと温かな間接照明、モノクロームで統一されたシックなインテリア、逆L字型のカウンター席の窓側に座り、ミュージシャンのサインで埋め尽くされたコンクリートの壁と、ジュリーニョと肩を組んでいる自分のモノクローム写真を見上げながら、ヨシは軽く体を揺らし、微笑みながらリズムを取る。

「おっ、いいなぁ、パット・マルティーノのNightwingsじゃん!」
「うん。好きだったっしょ?」
「そう。俺の大好きなビル・スチュワートとマーク・ジョンソンだし、ピアノもイケイケでかっこいいんだよ」
「復帰してからはどうなん?普通に叩けてる?」
「いやぁ、まだまだ!勘も筋肉も全然戻らなくて、学生さんに負けてるくらいで ──── 」
「何言ってんの、松田さんの一番弟子が」彼女は、呆れた顔をした。「舐めプしてたら師匠にぶっ飛ばされるよ?」
「いやー、それ、冗談抜きで怖いよぉ?松田さん、圭介くんのことが大大大お気に入りだから、Riotとかで遭遇する確率爆上がりだし。俺、怖くて逃げ回ってるもん!」
「こないだ飲みに来てた時は、めっちゃ喜んでたけどね?あんたがまたドラムやり始めたって」
「マジで?」
「マジで。見た目はおっかないけど、ツンデレだからな?」彼女は頷きながら、バーボンを啜る。「65過ぎた爺さんチャンジーになって、自分はあとどれくらい生きられるんだろう、あと何年こうやって演奏出来るんだろうって弱気になってたタイミングで、ヨシが戦線に復帰してくれたから、嬉しくてしょうがないみたいだよ」
「へー、意外!あの人だけは、殺しても死なない感じするけどねぇ?」
「だよなぁ!だからあたしも言っといたんだよ。今時はパワハラだアルハラだって何かとうるさい時代だし、ガキ共もすっかりスポイルされて腑抜けになってっから。石嶺いしみねさんやEVIDENCEのママや松田さんみたいに、おっかながられる人がいないと駄目だって」
「その通り。ま、石嶺さんやママさんはああ見えて優しいけどね?松田さんはガチだから」
「あ、そうだ。ちょっと訊きたいことあったんだけど。自分、質問いっすか?」
「何だろ?どうぞ?」
「お互い40過ぎて、今更昔の話蒸し返すのアレだけど。何であたしと付き合わなかったの?」
「いや、そりゃあ、アレですよ。冴は ──── 」
「近寄り難かった?」
「そりゃそうですよ。ジャズ研同期では断トツ上手かったし、みんなのアイドルだったしさぁ?」
「卒業するまで一緒のバンドで、一番仲良かったのに?」
「いや、そりゃ、腰引けるでしょ?芸能人の息子でグッド・ルッキング・ガイの西ならともかく、何で俺なのぉ?ってなったしさ?普通にどっきりだと思うじゃん?」
「ていうかぶっちゃけ、噂のことが引っ掛かってたからっしょ?」
「噂?」
「あたしが石嶺さんの情婦イロだって」

ヨシは返答に困り、冴を見る。ウルフカットの茶髪にシルバーのチェーンピアス、タイトな長袖Tシャツにダメージジーンズという格好の彼女は相変わらず若々しく、眩いばかりに美しく、直視することが難しい程だった。彼は軽く溜め息をつき、首を横に振る。

「 ──── 違う違う。単純に俺、同業者は無理なんだ。しかも、同じバンドの子と付き合うとか絶対にありえなかったし」
「嘘やん?そんな理由なん?」
「そうだって。ていうか、あの時も同じこと言った気がするけど?」
「マジ?そうだっけ?」
「マジで。だから歴代の彼女も元嫁も、みーんなお水の人だったじゃん?」
「今思えばそうだけど。当時は言い訳だと思ってたからなぁ?」
「まっさかぁ!」彼は、残りの酒を一気に呷る。「知ってると思うけど、俺、そこまで器用じゃないよ?」
「知ってる知ってる。西ともよく話すけど、あんた昔っから純朴っつうか、馬鹿正直なとこあるからな。嘘も浮気もすぐバレんだって!」
「あ、ちょっとちょっとぉ?」ヨシは、顔をしかめる。「その話、今するぅ?」
「石嶺さんと薫さんにがんがん怒られてしょっちゅう泣いてた坊っちゃんが、よくもまあ戦場カメラマンなんかになったよな?」
「特派員ね?」彼は、目の前のボトルに手を伸ばす。「ずっと微温湯ぬるまゆにいたから、一歩間違えば死ぬような現場にいっぺん身を置いてみたかったんだ」
「何にせよ、よくあのカミさんが許したなぁって思ってたよ」彼女はそれを引っ手繰ってヨシのグラスに注ぎ、それから自分のグラスに注ぐ。「ちゃらちゃらした美女だから、絶対やべえなって思ってたんだ」
「留守中に貯金全額使われてた上に、浮気されまくってたからねぇ?」
「そりゃ、女盛りほっとくあんたが悪いよ」
「えっ、俺?俺が悪いの?」
「子供出来ない体なんだしさ、金もある暇もあるっつったら、やることはひとつやん?」
「いやもう、やめよ、その話!」ヨシは、ぶんぶんと頭を振る。「俺の最大の黒歴史!」
「そんなヤリマンでも、一度は惚れて一緒になった相手だべ?なかったことにすんなよ?」
「その通りだけどねぇ?同じ言葉、冴にも返すよぉ?」
「うちはあんたんとこと違って円満に結婚して、円満に離婚したからな?一緒にせんといて」彼女は電子タバコを取り出し、一服する。「子供も今年成人したし、残りは自分の人生で。好きにするさ」
「逞しいよなぁ。れいちゃん、今何処にいんの?」
「浅草の実家手伝って、鰻焼いてる」蒸気を吐きながら、彼女は答える。「料理が好きなんだって」
「へえ、ついこないだまで赤ちゃんだったのが、もう高校卒業かぁ。早いよなぁ!」
「そゆこと。あたしはパットとかポールとかイッセーとかリーとかいう名前にしたかったんだけど、旦那が猛反対してさ」
「そりゃそうだ。俺でも却下するよ?」
「冗談だって。ギタリスト由来の名前なんかつけたら、子供グレるわ」彼女は目を細め、溜め息をつく。「で、さっきの話に戻るけど。石嶺さんは大学入った時点で可南子かなこさんにロックオンしてたし、彼女と付き合うようになってからは女遊び一切やめて真面目になったのに。根も葉もない噂流されて大迷惑したんだよね?」
「俺も石嶺さんとカナさんの両方から、20歳になったら結婚するって聞いてたからなぁ。冴とどうこうってのはないなっては思ってた」
「なのに、こんないい女を振りやがって!」彼女は左手の拳で、彼の肩を殴る。「馬鹿かてめえ!」
「ちょ、いたっ!やめっ、冴!暴力反対!」
「少しは後悔してんじゃねえの?」
「いや、まさか ──── いえごめん、してます!めっちゃしてますぅ!」
「ならいいよ」彼女はスツールに座り直し、バーボンを啜る。「許してやる」
「そゆとこも全然変わってないよね?」
「お互いな?」
「ていうか」彼は周囲を見回し、壁に吊り下げられたギターを指差す。「全然弾いてないの?」
「練習はしてるけど、人前で弾く機会ないからなぁ」彼女はロックグラスを手に彼の右隣に座り、溜め息をつく。「速弾きはもう無理だよ」
「近いんだから、銘くんとこにふらっと遊びに行けばいいのに」
「薫さんにも言われてんだけど、うちとあそこ、営業時間丸かぶりなんだよな?」
「あ、そうだった。じゃあ無理か」
「今度誰か連れてきてよ。ここ、ドラムレスなら音出せるから」
「えっ?じゃあ俺だけ入れないじゃん!」
「そういうことになるな ──── 」彼女は立ち上がってCDを取り出し、有線に切り替える。「ああそうだ、ジュリーニョの孫どうしてる?」
「銘くんに背中押されて、プロに復帰したよ」
「すげえな。あの子くっそ美形だし、ビジュアルだけで充分食っていけそうだけど?」
「ほんとにね」ヨシは、肩を竦める。「西や銘くんもだけど、天から三物も四物も貰っちゃう人がいるんだよ、世の中には」
「瞬はどうしてんの?槙野まきの一誠いっせいの息子」
「岩下真尋くんの写真集手掛けるようになったのと、昼の番組に出演してから、一気にブレイクしちゃってさ。来年には、独立しても食えるとこまで行けそうよ?」
「へー、すげえ!あっ、それで、かかってきた電話を本人に回してやったのか?」
「そそ。あいつ英語全然駄目なんで、いっつも俺に頼ってくるんだよね。語学は武器になるから、そろそろ危機感持たせてやんないと ──── 」彼はスマートフォンを確認し、ぎょっとする。「ああごめん、もうこんな時間じゃん!追加分のお勘定!」
「ああ、いいよ。さっきのにコミで」
「マジで?」
「マジで」冴は頷き、彼の右肩に凭れてくる。「ね、泊まってかない?」
「何言ってんの、酔っ払い。明日朝イチで葉山なんだから」
「じゃあ、いつならいい?」
「だーかーら、泊まりませんって」彼はそっとその頭を押しのけ、立ち上がる。「アパートすぐそこだしさぁ?」
「あー、西が言ってたな。まだあのボロアパートに住んでんだって?」
「そう、学生時代からの長ーい付き合いで。土地ごと買っちゃったしね」
「はぁ?あんた意外と金持ってるね?」
「大家さん旦那さん亡くしてるし、子供もいないし。築50年でもう資産価値ないからって、格安で譲ってくれたんだ」
「あー。そういうとこも何か、ヨシらしいよね?」
「でしょー?」彼はジャケットを羽織り、カメラバッグを背負う。「中に防音室入れて24時間音出せるようにしたし、俺もシングルライフ漫喫しないと ──── 」

カウンターに置いたスマートフォンに右手を伸ばした時、冴の左手が重なってくる。指輪のない細い指とその乾いた温もりに、彼ははっとして動きを止め、彼女を凝視する。息詰まるような一瞬のあと、冴はけらけら笑って手を離し、背中をばんばん叩いてくる。

「 ──── ちょっと、ヨシ!そんなに怯えた顔しないでくれる?」
「ああごめん、スマホ強奪されるのかと思って、びっくりしちゃった!」
「ひょっとして、あたしに口説かれると思った?」
「身の危険は感じてるよ、いつも」彼はスマートフォンをポケットに突っ込み、にっこりした。「冴とも長い付き合いだからさ」
「駆け引きがないと恋愛はつまらない、緊張感持てる相手じゃないといい演奏は出来ない、って。あんたのポリシーだもんね?」
「今も言ってるよ。大事なことだから」
「ごめんね、あんたの大好きな若い子じゃなくて」
「あの子達はほら、猫カフェ行って可愛い可愛い言ってるようなもんだから。その場にあるものを愛でてるだけで、飼い主としての責任はないからね」
「ふうん。また家で猫飼う気はないの?」
「ないね、当分。たまに見てるぐらいで丁度いいんだ」
「そっか、残念」
「飼って欲しい?」
「うるせえ!調子こいたらぶん殴るぞ?」
「ほら、そういうとこ!」彼は笑いつつ、ドアハンドルに手をかける。「俺は、 ──── 俺達は、それでいいんだと思うよ?」
「まあな。やべえ、家賃収入に目が眩んで一瞬血迷いそうだったぞ?」
「休みの日にギター持って遊びに来たら?」
「何言ってんだよ。あんた、写真家とドラマー兼業してんだから。忙しいでしょ?」
「大丈夫だよ。時間は作るものだって、松田さんによく怒られてたし」彼はドアを潜りながら、振り返る。「来れる時連絡して」
「はいよ、しょうがねえ」
「しょうがねえって何よ?」
「行ってやるよ」
「だから、そういうとこ!」ヨシは苦笑しつつ、ゆっくりとドアを閉める。「ごめん、残業させて。おやすみ!」
「おやすみ!今からキャバクラ行くんじゃねーぞ?」
「行かない行かない!明日早いし、おじさんそんな体力ないし!」

コンクリートの壁に寄り掛かり、腕組みしてスーツの背中を見送っていると、階段を下りる直前、彼は足を止めて顔を上げ、笑顔で手を振ってくる。仏頂面で手を振り返しながら、冴は深々と溜め息をつき、がりがりと頭を掻く。

「ったくよぉ!あの鈍感野郎!」

彼女はヨシのグラスの底に僅かに残ったバーボンを呷り、ガラス壁越しに人気のない通りを見下ろした。くたびれた紺色のスーツに皺だらけのワイシャツ、履き古したリーガルのストレートチップ、大きなカメラバッグを背負った小柄な男が慶応仲通り商店街の方角へ歩いていくのを眺めながら、冴は、19歳の頃の彼の姿を思い出す。不精髭の目立つ丸顔と天然パーマの髪、ぽっちゃりとした体格と人懐っこい話し方、飾り気のない見た目からは想像もつかない聡明さとある種の鋭さ、澄み切った大きな黒い瞳は、当時から全く変わっていない。ジャズ研の先輩では男気とフェロモン全開な石嶺さんが、同期の中ではセレブでイケメンな西が一番人気だったけど、ヨシのファンも結構いたんだぞ?あんたは音楽とドラムとオスカー・ワイルドに夢中で、カメラが恋人だったから。全然気付いてなかっただろうけど ────






三田二丁目の交差点に差し掛かったヨシは、信号機を見上げてまた溜め息をつく。いや、もう、 ──── びっくりしたぁ!坂口くんじゃないけど、まさかこの年になって、初恋の人にもう一度口説かれるとは思わなかったよ?冗談抜きで、心臓飛び出すかと思ったよ!

「 ──── あー、しくった!マジで何やってんすか、西村佳輝よしてるぅ!また冴に恥掻かせるような真似してさぁ?ほんっと最悪、最低、俺!」

彼は両手で頭をばりばりと掻きむしり、その場で足踏みをする。

「45にもなって何カッコつけてんのよ、もう!こういう時、普通の男なら素直にお泊まりするもんでしょ?お互いもう独身なんだしさぁ?したらよかったのよねぇ?なんで仕事を言い訳にしてんの?あたしったら、ほんと馬鹿ぁ!」



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