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マザレス番外編 烙印の報復 機械のなかの幽霊 没エピ 鳴海ケンイチ編⑤ スピンオフ

 手術台の前白衣の男がたった一人でケンイチの開頭手術を行っている。その部屋は普通の病院の手術室とは違い、異様な数のコンピュータとおびただしい量の電子機器に囲まれていた。

『記憶のメカニズム』
 人間の記憶は短期記憶と長期記憶に区別される。短期記憶とは文章を書き写したり、電話番号をプッシュしたりするための極めて短い記憶をいう。それに対して数分以上の長い記憶は長期記憶という。同じ長期記憶でも、二十分後には忘れてしまうものから何年間も覚えているものまである。また、一時的に忘れていても、何かのきっかけで思い出すこともある。長期記憶は大きく分けて『意味記憶』と『エピソード記憶』に分類できる。意味記憶とは言葉を覚えたり、試験勉強をしたり、本や講演などで知識を吸収したりする記憶のことをいう。押並べて記憶力の良し悪しを論ずる場合は、この意味記憶を指している。意味記憶を一般的に云う『知識』だとするとエピソード記憶とは直接体験することによって記憶される『思い出』のことを云う。幼少期から現在までのさまざまな出来事、育った家の周りの景色、学校などの道順と風景、直接かかわった人のイメージなどがエピソード記憶である。

 被弾した右側頭部、脳内部から銃弾の摘出。ケンイチの右の海馬は銃弾によって損傷していた。男の手によってケンイチの脳に人工海馬マイクロチップが埋め込まれた。

『海馬』
 人間の脳には、左右に『海馬』と呼ばれる器官がある。タツノオトシゴにそっくりの形状をしたその器官は人間の記憶を司る機能を持っている。海馬は脳の中では小さな器官でそれぞれ小指ほどの大きさである。しかし海馬は小さな器官ながら、大脳に入った情報の取捨選択をして、記憶全体をコントロールするきわめて重要な役割を果たしている。

 海馬は、パソコンでいえば一時的に情報を記憶するメモリの役割を果たしていると云える。そして必要があれば、パソコンを終了する前にデータを保存するのと同じように、海馬も記憶を大脳皮質に送って長期記憶として保存する。大脳皮質というハードディスクに長期記憶されたファイルを呼び出すことも『海馬』の役割であり、それは『思い出す』という作業である。海馬は人間の記憶の司令塔だと云えるのであった。

 ケンイチの脳に移植されたマイクロチップが発する微弱な脳波を手術台の横に配置された大型のバイオフィードバック受信機が感知している。

 手術台に固定された脳波モニターが変換されたケンイチの脳波をリアルタイムにサンプリングしている。男は受信機から出ている六十箇所に及ぶ電極が繋がっている特殊なヘッドギアをかぶり電極パッドを自分の頭皮にセットした。そしてアームレストの付いたゆったりとした革張りの椅子に腰を深くおろすと静かに眼を閉じた。

 ───瞑想。男は精神を集中させた。ケンイチの過去の記憶をマイクロチップで吸出し自分の脳にイメージとして直接呼び出し共有しようというのだ。

 数十分が経過した。何も起こらない。ケンイチの記憶の扉、それはガードが固くなかなか男の呼び出しに答えようとしないようだ。

 ───封印を解くパスワードが必要なようだな……。

 男はヘッドギアを外し椅子から立ち上がった。壁際に備え付けられた棚からビンテージブランデーのボトルを取るとその琥珀色の液体を手元のビーカーにきっちり百ミリリットル注いだ。しばらく手のひらで温めるようにビーカーを包み込んでいたが、やがてその芳醇なアルマニャックの香りを確かめる事もなくストレートで一気に飲み干した。焼いたワイン、その液体は男の乾ききった喉を爛れさせみぞおちを焦がす。男は机の抽斗を開けると白い結晶粉末の入った小さなビニール袋に手を伸ばした。パケを破り耳かき大のアルミの軽量スプーンでその白く透き通った砕けた氷砂糖にも似たメタンフェタミンの結晶をこぼさぬよう注意深く試験管に移した。試験管に蒸留水を注ぐと結晶が弾けて踊りだす。それを試験管ミキサーのゴムの振動板に押し付けた。シェイカーのスイッチが入り試験管を細かくシェイクするとあっという間に無色透明の覚せい剤の注射液が出来た。男はディスポーザブル25G針付き注射器の梱包を歯で破ってポンプを取り出すと試験管の中のシャブ液を泡立たぬよう静かに吸い上げる。白衣のポケットからワンタッチで着脱できる駆血帯を取り出し先ほどの椅子に腰掛け左腕の袖をまくり腕を一旦下げた後、上腕部を締め付けた。男の腕に紫色の静脈が浮かび上がった。男は注射器の針を肘の内側の静脈の一番怒張した部位に刺して針が血管の壁を破るプチッという感触を確かめると今度はやや角度を浅くして更に針を進めた。プランジャを指先で少し戻すとシリンジ内のシャブ液に血液が逆流してきた。それで血管にしっかり針が進入している事を確認すると、緩やかにプランジャを押し込んだ。冷たい感覚が左腕から全身に広がっていく。血中に進入した劇薬はアルコールの酔いも手伝って男の循環器を駆け巡り瞬く間に中枢神経を直撃した。目の眩むような強烈な快楽が脳天から背骨の脊髄に伝達され男の全身を走り抜けた。自律神経は変調をきたし瞳孔は開いたままになり、呼吸は荒がり心臓は早鐘を打ち続ける。しかし反対に意識は冴え渡り集中力が増大していくのを男は感じていた。

 男は再びヘッドギアをかぶると静かに目を閉じた。椅子に預けていた身体はまるで重力から開放され浮遊しているように感じさせる。薬効がクライマックスに達しようとしていたその時、まず聴覚に異変が起こった。音が聴こえてきた。最初は遠くから。二拍子で弾くエレキベースの重低音にあわせてバスドラムをキックしているような規則的な鼓動が何処からともなく聴こえてきた。音は次第に強まり男の身体を揺さぶるまでになる。男は宇宙空間に浮かびただ鼓動に身を任せていた。心地よかった。安心感に包まれていた。母親の胎内にいるように……。正にこれはケンイチの胎内記憶だった。いつまでもこの幸福感を感じ続けていたかった。だが急に男は地表に押し付けられた。音が途切れ重力が戻った感じがして次の瞬間どうしようもない不安感が男に忍び寄る。なんだか判らない押しつぶされそうな圧力と息苦しい程の閉塞感が襲ってくる。寂しさ、孤独、疎外感。寂寥感。助けを呼んでいた、泣き叫んだ。しかし誰も手を差し伸べてはくれなかった。痛み、激しい痛みが襲ってきた。手や足や頭、顔、腹部……。体中で痛みを感じた。暴力の記憶だった。その悲痛な記憶は徐々にエスカレートしていき男の五感を揺さぶり続けた。母親から受けた仕打ち、その情夫達から受けた暴力、せっかん、怒号。叩かれ、殴られ、蹴り上げられ、叩きつけられる。うるさいと叱咤され泣く事も許されなかった幼年期の記憶、波のように押し寄せて浴びせかけられる罵声と悪意。空腹、火傷の痛み。嗅覚は何か焦げるような悪臭を感じている。タバコの火で焼ける皮膚と肉の臭い。指先には生爪が剥がれる感触。自身のあばら骨の折れる鈍い音、内出血の疼き。気管に水が入って息が出来ない苦しみ。怯え、怖気、恐れ、おののき、恐怖の連続。(……凄まじい記憶だ……信じられない)五感の全てで感じたありとあらゆる痛みをケンイチの脳は驚く事に全て克明に記憶していたのだ。戦慄が走り母親とその情夫達に対する怒りの感情が噴出してくる。呪いの祈り、呪詛、呪言、母の愛を求めれば求めるだけ増幅してゆく憎しみ。絶望。愛から憎悪へ。倒錯してゆく親子の情愛。(あまりにも悲しすぎる……)脳裏に赤い金魚が突然現れた……。狂ったように泳ぎ回るそれは金魚本来の愛くるしさを全く感じさせない……ランブルフィッシュ。それはまるで死ぬまで戦い続けるといわれる闘魚のような猛々しさを持っていた。めくれあがった口から見えるその顎にはまるでピラニアのように鋭く尖った歯が並んでいる。するとどこからともなく黒いトカゲが現れた。トカゲは金魚に喰らいついた。瞬時にして金魚はトカゲにすっかり喰われてしまった。

 トカゲが何か喋った。「ヤラレタラヤリカエセ」確かにそう聴こえた……。トカゲの言葉を聞いたとたん男は激しいショック状態に陥った。心臓を鷲づかみされたような苦しさ、呼吸も困難になり頭が割れそうに痛み出した。ケンイチのどす黒く渦巻く殺意、闘争本能。その象徴である黒トカゲ。母親殺害。ケンイチの忌まわしい呪事の記憶が今まさに男を飲み込もうとしていた。ケンイチの激しい思念が男の精神を支配してゆく。ケンイチの強靭な生存本能が男の自我を突き崩しかけていた、今男の精神は崩壊寸前に達していた。


「父さん…」

 男は薄れ行く意識の中でその声を聞いていた。

「父さん、もうやめて……」

「……エイジ……エイジなのか?」

「そうだよ、このままじゃあ、父さん死んじゃうよ」

「おお、エイジ……、よく還ってきてくれた」

 男の頬に一筋の涙が流れ落ちる。

「これは、お前を蘇らすためなんだ……」

「わかってる、この子の身体を使って僕を再生させようって思ってるんだね?」

「そうだ、父さんはどうしてもお前にもう一度会いたいんだ、お前のデータは全てそろっている、生まれてからの記憶、脳の全情報はコンピュータに保存してある、そのデータをこの子の脳の記憶を消去して上書きすればいいんだ、人格の交換。出来ない事じゃない。その為の人工海馬シリコンチップの開発、二年間不眠不休でこの研究に没頭してきたんだ、それがやっと完成したんだ」

「ありがとう、うれしいよ、すごくね。僕も父さんに会いたいよ、でも、このままじゃあ父さんが死んじゃう」

「……エイジ、父さんを許してくれ、あれは決して危険な実験じゃなかった」

「うん、わかってるよ。父さんを恨んでなんかないよ、あれは事故だったんだ」

「だから、この子の身体を借りてお前をもう一度……」

「もう、いいんだ、父さん、僕はもう死んだんだ……」

「エイジやめてくれ、父さんはお前が死んだなんて思った事は一度もないんだ、あれからもずっとお前と一緒に暮らしてきたつもりだ」

「……父さん」

「もう一度、お前をこの手で……」

 コンピュータの中に記録されたデータにあるエイジの残留思念。その残存する意識が微弱な電気信号となりコンピュータの電子回路を介して増幅され男の潜在意識に直接語りかけているのだ。今、エイジは機械の中の幽霊として父親との再会を果たしているのであった。

 男は脳科学の分野の天才。政府の研究機関で国家プロジェクトにたずさわりその将来を嘱望されていた。そのプロジェクトとは人間を遠隔操作する電磁兵器の開発。そして二年前ある実験の被験者に男は自分の息子であるエイジを選んだ。しかしそれは男の言うように決して命の危険を伴うような実験ではなかった、筈であった。
 だが実験の過程でエイジは命を落とした。不慮の事故。男は嘆き悲しんだ。愚かだった、野心のために非人道的な兵器の開発に手を染めた自分を呪った。男は逃れるように政府の研究所を去った。

 手術台の上で眠るケンイチ。トラウマのフラッシュバックで苦悶の表情を浮かべている。

「見てみて! この子拳を握りしめてるよ。まるでファイティングポーズとってるみたいだ。父さん、この子の生存に対する執念はすごいよね」

「そうだな……」

「全身全霊で『生きいていたい』っていってる。あれだけの仕打ちを受けたのにまだ生きていたいって……」

「……」

「ねえ、とうさん、この子を生かしてあげようよ」

「……しかし」

「この子は確かに罪を犯したかもしれないけど、罰はもう十分受けてるよ」

「……」

「罪は罪だけど…… そうしないと自分が殺されちゃうから、そうやっただけでしょ」

「……そうだな」

「じゃあ、決まりだね! そうだ! 新しい名前を考えてあげないとね。うーん、ハルトはどうかな。この子の将来が晴れやかで春の日のように穏やかであるように……」

「ハルトか……、だがエイジはそれでいいのか?」

「父さん、僕はもう死んでるんだよ。でも僕はこの子に比べたら何倍も幸せだった。よかったよ、父さんの子供に生まれて」

「エイジ……」

 急に男の視界が歪み始めた。一瞬景色が揺らぐと今まで見えていたエイジの姿がかき消えた。

「父さん、そろそろ時間みたいだ……。もう残留エネルギーが切れそうだ……」

 男の視界が徐々にぼやけていく。歪んでしまった空間にエイジの声だけが響く。

「エイジ、待ってくれ!」

「父さん……、ありがとう……」

「エイジ!!」

 エイジの思念はそこで途切れてしまった。

 ───ケンイチの脳、たんぱく質のレベル操作による特定の記憶の消去。しかしこれだけ強烈にDNAレベルで書き込まれた記憶を完全に消し去る事は不可能だ……。

 ───人工海馬によるトラウマのブロック機能と合わせればなんとか忌まわしい記憶を封印できるだろう。

 ケンイチは生まれ変わった、ハルトとして。全ての作業を終えると男は倒れこむように深い眠りについた。

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