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秋田という「多死社会」

私は現在、仙台で一人暮らしをしているが、お盆や年末年始、都合が付けば長期休みに、秋田県由利本荘市の実家に帰省している。

元々地域や社会の課題に関心をあった私は、仙台と秋田を往復しながら、両地域の社会環境の違いを見ては、様々な感情を抱く。

皆さんもご存知の通り、秋田県は人口減少・少子高齢化が最も進んでいる地域、「課題先進県」である。

この秋田について、最近の帰省で強く感じているのは、「多死化」が進んでいるということ。

話を盛るわけでもなく、実際に起きているのは、帰省してばあちゃんの家に行くたびに「〇〇さんが亡くなった。」という話を聞くこと。これが日常会話になっていると言っても過言ではない。

大体いつも、地元のどこかで花輪が立っている(多分仙台などの都市部にはほとんどないのだろうが)し、通夜日程などが書かれた紙が家に届くし、じいちゃん・ばあちゃんがそれらに参加することも少なくない。

幼馴染は葬儀屋に勤めているけど、日々忙しく、儲かっているのだろうなと。

社会が全体的に都市化し、核家族化が進んだ今、「死が身近に感じられなくなっている」「死が見えにくくなっている」と言われるが、秋田では、これとは真逆なことが起きているわけだ。

もはや秋田では、「人(他人)が死ぬ」ということが当たり前になっている。

それだけではなく、空き家や更地がどんどん増えている。それこそ帰省するたびに、昔見ていた建物(家)がなくなり、景色が変わっている。

髪の毛が減り、歯が抜けていく、人間の老化と同じように。


他人の死が、衰退していく地域の現状が、自分自身に問いかけてくる。

「お前はどう生きたいのか?」「今・これから何をすべきか?」と。



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