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『火垂るの墓』サクマドロップスへの憧憬

「お疲れ。また明日ね」
 
田淵さんは言って、私の手に何かを握らせた。見ると飴。ハッカ味だ。

「ハッカ……」

子どもの頃、『火垂るの墓』を観て以来、サクマドロップスに憑りつかれていた一時期があったことを思い出す。
「ドロップを買ってきて」と祖母に頼んだら、風邪の時のやつ……なんだっけ、ヴィ、ヴィ……ヴィックス! そう、ヴィックスを買ってこられて、あのとき私はあまりのことに泣き崩れた。
片膝をつき、がっくりと肩を落とし声を殺し、〝中年男性の悔し泣き〟みたいな姿で泣いた。そんな姿で泣く幼い孫を見た祖母はたいそう心を痛め、すぐにまたスーパーへと原付を走らせると、今度は正しく缶に入ったサクマドロップスを買ってきてくれた。だけど、映画で見たものとデザインが違ったせいで私はそれを偽物だと思い込み、偽物の蔓延る世を憂いてまた泣いた。

しかしその後は、幼稚園以外のどこへ行くにもサクマドロップスの缶だけは持ち歩き、暇さえあれば飴を舐め、ハッカ味だけを残して一週間もせずにすっぺりと食べ終えた。残ったハッカ味は全て祖母にあげた。
思えばあの頃、祖母はまだ若かった。水泳やエアロビクスの習い事に行っていたし、原付をブンブンいわせてどこへでも行った。今は水泳もエアロビクスもやめてしまって、転んだら大変だからと家族から原付禁止令を言い渡されて、家にこもりがちになって──って、何を考えていたんだっけ。

「それ」

顔を上げると野々口さんが立っていた。私の手のハッカ飴を見ている。

「……欲しいですか?」

「ううん、私ももらった」

ぱっと開かれた野々口さんの手にも、同じハッカ飴がのっている。

「そうですか。ハッカお好きだったら、どうぞ」

「ううん。好きじゃない」

野々口さんはまっすぐな目で言うと、ハッカ飴をエプロンのポケットにしまい込んだ。
怒っているのだろうか、嫌いな味の飴をもらって。

「あの……」

「ん?」

「怒ってますか?」

僅かな間があった後、
「え、怒ってないけど……」

野々口さんは少し不満げな口調で答えた。怒ってなかったのに「怒っているか」と訊かれ、怒ったようだ。口調から察するに、だけど。

そもそも、野々口さんは表情筋が死んでいる。こうやって私が声から野々口さんの感情を読み取れるようになった──正しくは、読み取れることがたまーにあるようになった──のも、ごく最近だ。
顔の筋肉をぴくりとも動かさない人が接客業に従事していていいんだろうか。まあ裏を返せば、いつ、何があってもどんなときも同じということで、ショップチャンネルのような安心感があるとも言える。

「これって、ハッカ味しか入ってないやつを『ハッカ味が食べたい』という意思のもと買ったんですかね。それとも色々入ってるやつの中から、あえて私たちにハッカ味をくれたんですかね」

「後者の、だけど余りものって可能性もあるよね」

「あー……」

「火垂るの墓、ってあるでしょ」

あ。思わず声が漏れた私をちらりと見ると、野々口さん話し始めた。

「あれに出てくるサクマドロップスを見て、欲しくて欲しくてたまらなくてね。お小遣いを握りしめてスーパーへ行ったの。すぐにあったわ、缶のサクマドロップス。子どもの目線の高さの棚に。本当にあるんだって感動して、そこでしばらくその姿を眺めてた」

スーパーのお菓子売り場にたたずむ、子どもの頃の野々口さんが容易に想像できる。今と同じように無表情で、棚に並んだ色とりどりのお菓子を眺めているのだ。喜んでいるのか、悩んでいるのか、もしかしたら怒っているのか、誰にもわからない顔で。でもその実は、感動している。棚にあるサクマドロップを見て。

「ふふ……」

「何を笑ってるの」

「あ、いえ、すみません」

「買って帰って、中身を全部出して、限界まで口に詰めて、舐め終わったらまた口に入るだけ詰めて……」

口に、入るだけ。

「あの、野々口さんでも、口にいっぱいドロップを詰めたらこう、頬がプーって膨らむんですか?」

「……え?」

しまった。想像の中の子ども野々口さんが、いきなりドロップを口にぼんぼん放り込むもんだから、え、表情筋の死んでる人のほっぺたって膨らむのか? って思っちゃった。なんか膨らまなさそうっていう、そういうイメージが……。

「すみません、なんでもないです」

「ティッシュの上に中身をのせてたの、一時避難所として。そしたらハッカ味だけ最後まで残ったのね。嫌いだから避けてたからなんだけど。他の味を食べてる間に、何かの拍子に消えてなくなってたりしないかしらっていう、希望もあって。だけど消えないのね。そんなに甘くない。飴だけど、ハッカだから」

「……ええ、はい」

「夏だったから溶けて、ティッシュにくっついて。それを……くっついたのを理由に、ハッカ味をなかったことに……そう、要は捨てたの。その夜、節子に対して申し訳なくて、一睡もできなかった」

そういう感情はあるんだ。

「空になった缶に水を入れて、その水を飲むというのが購入の目的だったんだけど、一晩おいた方が味が染みるかなって、水に。それでリビングのテーブルに水道水を入れた缶をおいておいたんだけど、翌朝見たらなくなってた」

「盗まれたんですか?」

「私も最初は、弟坊主の仕業かと思って問い詰めたんだけど」

おとうとぼうず……?

「母が捨ててたのよ、ゴミだと思って。ああ、罰が当たったんだと思ったわ。悪いことをしたから節子の神様が怒ったんだって。それ以来、ハッカ味の飴は嫌いなの」

そういえば私も、空になった缶に水を入れて飲むのが最終目的だった。残ったハッカ味を皿の上に全部のせて祖母にあげたんだ。ハッカ味だけがのった皿が、しばらく冷蔵庫の中にしまわれていた映像を今、鮮明に思い出した……というか節子の神様って何?

「節子にも、弟坊主にも本当に……悪いことをしたわ」

「私は水、飲みましたよ」

「え? そうなの?」

野々口さんの目の奥が、ほんの一瞬きらりと光る。
残ったハッカ味を皿の上に出したとき、一緒に出てきた色とりどりのドロップの欠片。あのきらめきと似ていた。七色にくすんだ、あの、なんとも言えないきらめき。子ども野々口さんは、あれを見ただろうか。

「どんな味だった? やっぱり色んな味なの?」

「あれは……」

舌の上に、あの夏の日の味が広がる。

「ただの……ぬるい水道水の味でした」

野々口さんの目から、七色のきらめきがふっと消える。私の脳裏からも。
野々口さんは自然な動作で、エプロンのポケットからハッカ味の飴を取り出して、袋を開けると躊躇なく口に放り込んだ。私も同じようにハッカ味の飴を口に含んだ。

「サクマドロップスサクマドロップス言うてますけども」

「どうしました?」

「映画に出てきたのはサクマ〝式〟ドロップスなのよ」

「え……なんですかそれ? 都市伝説?」

「……そういえば、岩井さんっていくつだっけ」

「え……今年で二十歳になります」

「そうなのね……あら」

「どうかしましたか?」

口元に手を添えた野々口さんが、気持ち目を見開いてこちらを見る。あ、さっきの、くすんだ七色。

「ハッカって、こんな味なのね」

言われて初めて味覚に意識が向く。すんすんとした清涼感に、甘を辛でコーティングしてさらに甘を重ねたような変な味。まずくはないけど……やっぱりなんか、おばあちゃんが好きそうな味だな。あのとき、祖母にあげたのは間違いではなかったかもしれない。

「はちゃめちゃに美味しいじゃない」

「おえ?」

「え?」

〝おばあちゃんが好きそうな味ですね〟って、言う前でセーフ。「しゃべる前にちょっと考えてからしゃべれ」という、いつどこで聞いたのだったか、名言というか座右の銘というか、そういうのを思い出す。それって本当だね。でも誰が言ってたんだったっけ……あ、野々口さんか。

「『しゃべる前に考えてからしゃべれ』って、野々口さんの座右の銘でしたっけ?」

考えるよりも先に訊いている。全然だめだな、自分よ。

「え? ああ、私の座右の銘っていうか。『人に言われて一番心に残ってる言葉』としてカーラ・デルヴィーニュがあげてたものね。それに私が感銘を受けて、いつだったか岩井さんに話したんじゃない? なんでそんな話したのか忘れたけど」

「ああ、カーラ・デルヴィーニュか」

『岩井さん。レジヘルプお願いします』

ポケットのインカムから聞こえるざらついた音声に、反射的に走り出す。頭の中ではずっと、「デルヴィーニュって名前かっこ良」ってことと、「レジなのに飴舐めちゃってるじゃん」ってことが、ぐるぐるぐるぐる回ってる。レジ、ミスりそう。

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