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復讐は氷が溶けたオレンジジュースくらい薄くて脳はすごくてエライ

この町には城がある。その城のすぐそばに、私が通う大学もある。お隣が城って荘厳な日常。慣れてなんにも思わないけど。だけど、毎朝お堀を眺めながら通学するのは悪くない。抹茶みたいな色のお堀は落ちたらひとたまりもなさそうで、「城を守ってるよなぁ」と毎日欠かさず自動的に思っている。

そんな通学路、城の向かいにぽっかり空いた更地がある。駐車場で朝礼をするタイプの居酒屋と大繁盛店ワークマンに挟まれたその場所にはかつて、結構大きな割烹料理屋があった。名前は確か……。
 
「紙風船、でしょ」

「そう、それ!」

思わず野々口さんを指さしてしまう。
どうしてこの話になったのか、思い出そうとしても思い出せない。野々口さんとのおしゃべりは、いつもなんの脈絡もなく始まるから……あ、いやでも思い出した。野々口さんの通勤方法が気になって、私が訊いたんだ。

「その日の気分よ。やる気があるときは自転車で、ダメな時は車」

そう野々口さんは言った。「岩井さんは?」とも。

この店にバイトに来ている大学生は10人いるけど、半分が原付で半分が自転車。私は自転車。「通学もバイトも自転車ですよ」私が答えると、野々口さんは一言「元気なのね」と言った。野々口さんがそれを、完全なる誉め言葉として言っているのだと分かったから、「ありがとうございます」と言っておいた。

それで、だから、通学路の話を私は延々と野々口さんに語って聞かせていたわけだ。春休みが終わり、閑散期で客が少ないのをいいことに。

「まさかつぶれるとは思わなかったわよ、あの紙風船が……」

野々口さんはぽつりと言った。

「もうかれこれ4、5年になるかしらね、つぶれてから」

「私が小学生のときだったので、10年前ですよ」

「え……倍?」

野々口さんは遠い目をして、本当に遠い目をして、何かを考えているみたいだった。時の流れに思いを馳せているんだろう。

「うちの時給、知らないうちに上がったのね」

いきなり何。野々口さんの視線の先を追うと、離れた棚に貼られた求人のポスターがあった。本当に遠くを見ていたようだ。

「……野々口さん、視力いいんですね」

「ううん、視力は極悪よ。でもあのフリー素材のお姉さんの大きな笑顔だけは、離れた場所からでも薄く認識できるのよ、ずっと貼ってあるし。時給1100円っていう字は真っ赤っ赤だからよく見える。ああいうパキッとした色はいいわね、極悪視力でもよく見えるから」

「視力を〝極悪〟と表現する人なんて初めてです」

「うちの店に、あんな眩しい笑顔を振りまくスタッフなんて皆無よね。あんなわかりやすい嘘にひっかかる人いな……」

野々口さんが私を見、ゆっくりとした動きで手を口元へと持ってくる。

「なぜ私を見て言葉を切りました?」

「今のでわかったのね。ゆっくり動けばバレないと思ったんだけど。私の慌てふためきようが」

「ふためきをつけるほど慌ててたんですか?」

「いえ、ごめんなさいね。岩井さんももしかして、あの〝嘘〟を見て応募したクチだったらと、軽率なことを」

「……違いますよ。私はIndeedです」

「じゃあよかった」

すみません。背後で声がして振り返ると、ああ、これは長くかかりそうといった雰囲気をまとったおばあさんが立っている。

「はい、いらっしゃいませ」

あーあ、と思うのを顔には出さないようにして店員の声を出すと、「これはお釣りは出るの?」と図書カードを顔の真ん前に突き出された。見えるものも見えない距離ですねという言葉は飲み込んで、「カードに残額が残りますので、次回またお使いいただけます」と偉いね私、店員の声。

「あらっ、そう」

簡単なことでよかったって気持ちと、今おばあさん、日本語と韓国語の狭間だったなとか考える。引き留めて確認したい。「今、日本語のあらそうでした? それとも韓国語のアラッソでした?」ってそんなんどうでもよくて、野々口さんとおしゃべりの途中だった。

振り返るとでも、野々口さんがいない。ウロウロと探していると、中央通路の目立つ棚に、大きなポスターをベタベタ貼り付けている野々口さんの姿を見つけた。黒い背景に赤い文字。何やらおどろおどろしいポスターだってことはわかる。そして、絶対にあんな目立つ棚に貼るポスターじゃないってこともわかる。だってあそこは、本屋大賞とかを置く棚だもん。

勝手にやっているのだ、野々口さんは。
勝手に好きなことをやっている野々口さんを遠目に見ながら、きっとあれ、明日には剥がされるんだろうななんて考えたり。

城と、いや違った、大学と、家の間なんです、この店。
貼り終えたポスターをじっと眺めている野々口さんの背中に、私は無意識に語りかけている。まさか聞こえたわけじゃないだろうけど、くるりと振り返った野々口さんがこちらに向かって歩いてきた。

「大学と家の間なんです、この店」
浮かんでいた言葉をそのまま言う。

「そうなの。それはいいわね。そういうのが一番いいわよ」

「求人のポスターの笑顔のお姉さん、Indeedにも同じ写真使われてましたけど、だから、私、だからですからね。大学と家の間だからです」

「……キレてるの?」

「キレてないですよ。一応、言っただけです」

「あのポスター、いいでしょ」

「多分剥がされますよ、店長に」

「大丈夫。嫌になるほどセロテープで何ヵ所もとめてきたから。剥がそうとして店長、発狂するわよきっと。見ものね」

「店長に何か恨みでも?」

「全くないわ。悪い人ではないもの」

「まぁ……悪い人ではないですね。どういう人かもよくわかんないですけど、私は」

「害のない人、の方が正しいかもしれないわね。どちらにしても歴代店長を思えば良い人よ。昔はね、悪いことを平気でやってのける極悪店長がいたのよ」

「前に言ってた、お金とった人ですか?」

「ううん、それとはまた別」

お金を盗る以上のことをした店長が、かつてこの店にいたとは。どんな人だったんだろう。悪い人がどんな顔をして書店員をしていたんだろう。

「昔、家のすぐそばに小さな本屋があったんです」

「……いっすんぼうし書店かしら?」

「違います。……というかなんですかその名前。すごいな」

「すごいわよね」

私にとって本屋と言えば、家の近くにあった個人経営の小さな本屋だった。優しそうなおじさんがやっている店で、近所の子どもがお小遣いを握りしめて通うオアシスだった。だけど、私が小学六年生の時にいきなりつぶれてしまった。
夏休み前の終業式だったかな、校長先生が、本屋がつぶれたことに言及したことがあった。

『本が売れなくなってきて、小さな本屋さんは厳しい状況にあるのです。そんな状況にある中、お店は万引きが多くて困っていたそうです。これは店主のおじさんから直接聞きました。近所の子どもたちの万引きが閉店の原因だ、と。わかりますか? 〝近所の子ども〟とは皆さんのことです』

しーん、じゃない、キーンと冷えた空気が体育館を包んでいた、暑い日だったのに。
あの、どこからどうみても善人そうなおじさんが、優しい笑顔で私たちに接してくれていたおじさんが。表に見せていた穏やかな顔とは裏腹に、私たち子どもを憎悪の対象として見ていたなんて。もうなんか、何も誰も信じたくねぇよなぁと子どもながらに思ったことを、あのときそう強烈に思ったことを、しっかりと忘れていた自分に今、ちょっとだけ驚いている。人間って忘れる生き物だなぁ。

「すごい話ね。いっすんぼうし書店のネーミングセンス以上だわ」

「……すっかり忘れてましたけど、しっかり覚えてました。悲しいんだか腹が立つんだか、虚しいんだかおもしろいんだか」

「タイトルのつけられない思い出だってあるわよ。というか、そういう思い出の方が多い。けど……」

紙風船、と野々口さんが言う。「紙風船のベテラン仲居について」そう言い直し、話し始めた。

「成人式の後の同窓会会場が紙風船だったの。2階が宴会場になってて広かったのよ。みんなもう、ひっちゃかめっちゃかの大騒ぎだったんだけど、私は仲の良かった子たちと数人で隅の方で静かに話していたの。そうしたらね、頼んだばかりでまだ口をつけていなかった私のオレンジジュースを、配膳に来た仲居さんが回収したの。本当は『それはまだ飲んでますので』って言いたかったんだけど咄嗟に言葉が出なくて。『あっ』とだけ言って仲居さんを見たの。その人、しっかりと私の目を見て、じっと見て、『ふんっ』って言って顔をプイってしたのよ。そしてそのままオレンジジュースを持っていった」

「それは……」

「うるさくて腹が立ってたんでしょうね。だけど騒いでいる本人たちには何も言えないから、大人しくしていた私たちで鬱憤を晴らしたのよ」

「それはまぁ悲しい……悲しい? ムカついた? 思い出ですか?」

「いいえ〝復讐〟よ。私はあの仲居を許さない」

「野々口さんて根に持つタイプなんですね」

「でも紙風船もなくなってしまって、あの仲居も行方知れずよ。どうすることもできないわ」

「もし居場所がわかったら、何かするんですか?」

「言ってやるのよ」

「……なんて?」

「『あのオレンジジュース、まだ飲んでたんですけども』って」

薄い。復讐がうっすい。

「まぁ……というのは嘘で。どうでもいいわ、オレンジジュースの恨みなんて。紙風船のことを思い出したら自動的にこの話も思い出しただけよ。すっかり忘れてたのに、人間の脳みそってすごいわね」

「思い出でパンパンですね、脳って。それなのにそんな感じあんまり出さないですよね」

「エライわよね。もっと偉そうにしてもいいくらいよ。単独で宇宙に飛ばされるくらいなんだから」

「……野々口さん、『三体』読んだんですか?」

ネトフリで見たのよ。そう言い残して野々口さんはずんずんと歩き出した。野々口さんの向かう先には、さっき貼っていたポスターと、それを剥がしているパートの田淵さんの姿が見える。あ、と小さく声が出る。

田淵さん、それ今貼ったばっかりなのよと野々口さんの声がする。これを貼るって決まってたの! 田淵さんが言い返している。
野々口さんが貼ったおどろおどろしいポスターが剥がされて、田淵さんのポスターが新たに貼られる。薄いオレンジ色の、ほわほわとした色味のそのポスターを満足気に眺める田淵さんとは対象的に、野々口さんは腕組みで不満そう。

怒れる仲居さんに回収された野々口さんのオレンジジュースは、誰にも口をつけられることなく放置されて、氷が溶けて薄くなる。そうしているうちに仲居さんの怒りも収まって、野々口さんも友達とのお話に夢中になって。そうだったらいいなとふと思う。実際はすぐに捨てられて洗い物に回されたんだろうけど、でも、なんか。ね、なんか。

なんかわかりかけた気がするけど、何がわかりかけたのかもわからないまま今考えていたことも忘れて、急にドカンと思い出す。今日中に学参の返品作業を終わらせておいてって、店長から言われてたんだった。暇だなぁって余裕こいてる場合じゃなかった。

脳ってすごい。確かに宇宙に飛ばすだけありますねって、学参の詰まったダンボールをよいしょと持ち上げながら、気づけば私はまた、心の内で野々口さんに話しかけている。

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