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コミュニケーションについて
この世に成立しているコミュニケーションはせず、全てはディスコミュニケーションであると考えている。
昔、ネットのどこかで見た言葉で「コミュニケーションとは、各々が相手の発する言葉から理解できる部分だけを認識し、自身に都合のいいように解釈をしているだけ」というものがあった。本当にその通りだと思う。
結局他人は自分ではないので、他人から発せられた言葉の意図なんて完全に分かる訳がない。自分で都合よく解釈するしかないのだ。
クオリアみたいなもので、相手が「この間近所の果物屋さんのリンゴを食べたよ」と発してもそのリンゴが自分の思い描くリンゴとは限らない。
極端な例だが、自分は赤リンゴを想像していても相手は青リンゴの事をいっているかもしれないし。
要はこういった微妙に認識がずれたやり取りって日夜全世界で行われているんだろうなと思う。
最初は小さな摩擦でも、それが大きくなっていくから軋轢って生まれていくんだろうし。
私はよく人から「性格が捻くれている」だの「考え方が極端」だの割りかし否定的な意味合いを込めて指摘される事が多いが、教えてくれ。
文脈上良くない事という意味合いで上記の言葉を発しているみたいだが、何故私もそれが良くないと思っている前提なのだ。
私は「性格が捻くれている」のも「考え方が極端」なのも全く悪いと思っていない。自分以外に同じような考えを持つ人がいたとしても、決してそういう言葉は伝えないだろう。
しかし知人等はあたかも良くない喩えや正した方がいいみたいなニュアンスで伝えてくるので、それが不可解でしょうがない。
自分で当たり前と思っている性格や性分を指摘されても、「そうだね」ぐらいにしか思えん。せめて「捻くれた性格で社会生活を送る事のデメリット」なり「考え方が極端だとこういう失敗が発生したケースを教えるよ」なり伝えてくれ。
状態だけ伝えられても、それが良いか悪いかを判断するのは私自身なんだ。
結局、その人たちにとっては「自分以外の他者も含めてそういう意味で認識している人が多い」というバイアスがかかってるんだろうし、それ自体を否定するつもりはない。というか否定も何もそれはそれでその人達の考えなので寧ろ尊重されるべきだろう。
言葉一つで捉え方が様々に変わってくるので、人対人で認識が完全一致したコミュニケーションなんてまず存在し得ないと私は思う。
だからこそ一方的に相手の発言の意図を決めつけず、自分はこう解釈したけど貴方はどういう思惑でそういう発言をしたのか、みたいな擦り合わせをずっと続けていった方がいいと思うなぁ。
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