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ゲームと分かっているのに悪事が働けない

ビデオゲームというものは総合芸術だと思っている。
小説や映画、漫画やアニメ、音楽や絵画など、この世に存在するアートやカルチャーなどの殆どは視覚や聴覚を用いて受動的にコンテンツを享受するものだが、ビデオゲームは「自ら操作を行う」という能動性を持っており、他のコンテンツにはない体験的な価値を生ませている。
(厳密にいうと小説や漫画などは「ページを捲る」という能動性が生じたりしているが)

自分の指先一つで、まるで自分がその世界で生きているかのような経験が出来る。だからこそ私はビデオゲームが好きだ。

しかし、たまに純粋に楽しめない事がある。
ゲーム内とはいえ悪事が働けないのだ。

といってもグランドセフトオートだったり、アサシンクリードだったり、強盗や暗殺などイリーガルな行動を体験出来るゲームに関しては、それは元々”そういうゲーム”として認識しているので、どれだけゲーム内で卑劣な行動を起こそうとも別に心は傷まない。

だが、”そういうゲーム”じゃないのにそういう行動が出来てしまうゲームに関しては別だ。一度でもそういう行動を起こしてしまうと良心の呵責に苛まれまくってしまう。

例えば、スクウェア・エニックスより発売された「オクトパストラベラー」というゲームに「テリオン」という盗賊のキャラクターがいるんだが、彼は暴虐な悪党であろうが善良な市民であろうが関係なく「盗む」というコマンドを実行し、アイテムを盗む事が出来る能力を持っている。

悪党から物を盗むのは別に心が傷まない。
そこには義賊的な観点などの大義名分が生じているからだ。

だが、善良な市民から物を盗むのは如何だろうか。
めちゃくちゃ性能の良いアイテムが入手出来たとしても、どうしても抵抗がある。ゲームだし別に実行したとて現実世界で検挙される訳でもないのに、何故かそれが出来ない。別に良い人振りたいなんて気持ちは微塵もないし、ゲームで悪事を働けないことで良い人アピールする奴なんて碌な奴じゃない。

別の例えで言うと、エンターブレインより発売された「アマガミ」という恋愛シミュレーションゲームは各ヒロインのシナリオに所謂「トゥルーエンド」「グッドエンド」「バッドエンド」などエンディングが設けられている。
そんで特定のエンディングを迎える条件の一つに、「二人以上のヒロインを同時攻略しつつも、最終的に意中じゃない方の約束をすっぽかす」というものがあるんだが、そんな事が出来るとお思いか?
例えゲームとはいえ、イベントやスチル回収の為とはいえ、そんな悪辣な行為が出来るような人間性を私は持ってないよ。無理だよ。

多分、ビデオゲームというコンテンツ特有の”投影”や”没入”という感覚が自分をそうさせるんだろうな。
ワンピースを読んで自分も海賊になりたいとは思わないが、ドラクエをプレイしたら自分は勇者だって思っちゃうもん。(勇者じゃない主人公もいるけど)

ゲームだから気にしなくてもいい筈なのに、気にしてしまう癖をなんとかしたいなぁ。その方がコンテンツの楽しさをより享受できる気がするし。

逆に”極悪縛り”みたいな縛りプレイをやってみた方が克服できるのかな。
パーティーに入れたポケモンの体力が0になる度に逃がして新しいポケモンを迎えて使い捨て続ける、みたいな。
考えただけで吐き気がしてきたな。やはり向いてないのかもしれない。

まぁ自分は自分なりのプレイスタイルを貫くしかないな。
時が経てば考え方も変わるかもしれないので、そんときは思いっきり非道なプレイヤーになれればいいね。

おわり。





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