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二・二六事件を考える⑧27日戒厳令。蹶起部隊は戒厳部隊の指揮下に

「二・二六事件を考える」記事

決起の各部隊は武力でもって首相官邸、陸相官邸、警視庁を征圧し、そのまま兵を留めて27日を迎えた。磯部や村中、香田ら幹部連がこもる陸相官邸が蹶起部隊の事実上の司令部になっていた。

27日午前三時頃、「戒厳令」が布告された。

緊急勅令
朕ここに緊急の必要ありと認め枢密顧問の諮詢を経て帝国憲法第八条第一項により一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件を裁可し之を公布せしむ

戒厳令は天皇の命令(勅令)で出される。天皇は、青年将校の乱によって首都機能が麻痺した状態を異常事態を見なし、ただちに事態を収拾するよう軍隊の出動を命じたのである。

戒厳令司令官には、皇道派青年将校らの思想に理解を示す香椎浩平中将が任命された。

戒厳令の布告により、蹶起部隊は第一師団歩兵第一連隊に編入され、小藤大佐の指揮下に入る。

蹶起将校らは討伐を怖れたが、正規軍の隷下に置かれた以上その懸念はなくなった。それどころか、兵力の配置はそのままで、指揮官は皇道派の小藤大佐である。戒厳令が自分たちを討伐する性質のものでないことを悟った蹶起将校らはひとまず胸をなで下ろした。

だが、統帥部の意向は「占拠部隊の撤退」にあった。討伐となれば、「皇軍相討つ」の最悪な展開となるため、それだけは避けなければならない。

それでも戒厳令が出た以上は早期に事態を収拾せねばならず、決起軍が兵を退かない場合、鎮圧しか術はなかった。

同士討ちを避けるために、彼らに投降を勧める統帥部の将校もいた。「聖上(天皇)は大変心を痛めておられる。速やかに兵を引き上げるべきだ」兵の撤退と投降を進めたのは皇道派側の満井中佐である。蹶起将校たちの理解者であり、大きな視野では同じ方向を見ている仲間でもあった。

天皇のお気持ちを持ち出され心が揺らぐ将校もいたが、兵を撤退すれば即敗北につながることは目に見えていた。「皇軍相撃が何だ、相撃はむしろ革命の原則ではないか、もし同志が引き上げるならば、余は一人にても止まりて死戦する」(磯部)

維新内閣の成立をこの目で確かめるまで兵を退くわけにはいかない。革命義勇軍を自称する彼らが死守すべき一線はここにあった。










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