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戦艦大和は技術の宝石箱

大和が持つストーリーには、日本人の良い面も悪い面も凝縮されている、ということを前回のコラムで書きました。

そもそも、大和はなぜ誕生したのか? 背景を簡単に説明すると、第一次世界大戦終了後、戦禍でボロボロとなった世界の国々、特に欧州大陸では、「戦争を二度と起こさないような世界共通の枠組みを作ろう」という機運が生まれます。各国が戦争に走らないためには、領土侵犯をしないようなルール作りや、戦艦の増強を極力抑えるための仕組みづくりの必要性が訴えられました。

その流れの中で開催されたのが、1920年(大正9年)のワシントン会議および1930年(昭和5年)のロンドン軍縮会議です。このふたつの国際会議で、日米英を中心とする海軍大国に対し、主力艦の主砲口径の制限や巡洋艦の保有量制限など、軍艦保有におけるルールが課されました。学校で習った「5(英):5(米):3(日)」は、日米英間の軍縮協定で定められた軍艦保有比率を意味します。

しかし、この条約も昭和13年に失効を迎え、世界は無制限の建艦競争時代へと突入。ライバル国に遅れをとってはならないとばかりに、各国が鼻息あらく主力戦艦の建造にまい進します。日本が照準を合わせるべきは、他ならぬ米国の艦隊能力でした。

とはいえ、相手は無尽蔵の生産力を誇るエネルギー強国です。この国と建艦の数で競おうとしたところで、とても勝負になりません。そこで、1隻あたりの戦艦能力を向上させる質重視の建造計画を推し進めます。

1隻でアメリカ戦艦5隻分を凌駕するような大艦巨砲を実現するには、何より主砲の破壊力向上が求められました。そこで浮上したのが、主砲口径18インチの採用計画です(1インチ=2.54cm。18インチだと約46cm)。

当時、世界では主砲口径16インチが最高水準でした。アメリカも、16インチの主砲建造は可能でも、狭隘なパナマ運河を抱える地理的条件の関係上、それ以上の口径を持つ巨大戦艦の建造は事実上不可能でした。世界一の艦砲能力を持つことは、日本海軍の長年の悲願であり、かつ米国に太刀打ちできる唯一の方法とも考えられていました。海軍工廠のある呉には、重工業や精密工業、化学工業など科学技術のあらゆる分野における国内トップレベルの技術者が集められ、極秘裏のうちに秘密兵器の開発設計が進められていきます。

46センチ砲を製造するには、これまでの戦艦設計の常識を超える技術の開発も必須でした。海軍が要求するのは、甲板前部と後部合わせ、46センチ主砲9連装3基の設置。これに対応するには七万tを超える巨艦の建造技術や、砲撃による爆風から甲板設備を守るための防御装置など、さまざまな難題課題をクリアする必要があったのです。

このとてつもないプロジェクトを任された呉海軍工廠の技術者たちは、艦艇の建造にかけては日本一と呼ばれた集団です。高度なリベットの溶接技術や砲撃の命中精度を高める砲塔測距儀の開発、また効率化を最大化するための生産管理ノウハウの確立など、そこに投入された技術や手法は30年先の未来からもってきたような、画期的で斬新なものばかりでした。

前例のない中での取り組みは、日本の技術者たちに新しい発想を要請し、新しい技術の獲得をもたらしたといえます。この能力は、日本が焼け野原からの復興という新しい課題に直面したとき、再び開花するのです。





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