見出し画像

二・二六事件を考える⑤直前に決行命令を伝達された将校たち

「二・二六事件について考える」記事

青年将校らによる蹶起計画は綿密に練られて実行されたわけじゃなく、かなりあわただしいなかで、しかも直前に決まった。

2月22日、蹶起の首脳陣(野中、安藤、栗原、中橋、河野、磯部、村中など)がとうとう決行の決意を固めた。計画自体は一月ごろから持ち上がっていたが、歩兵第三連隊の安藤大尉の決意がなかなか固まらなかった。その安藤が逡巡の森を抜けて決心したのが22日。その日に開かれた幹部連の会合で決行日時を「25日」に設定しながら、24日になって「26日」に変更となっている。

熱い鉄のような魂だけを乗せた暴走列車は行く先も決めないまま走り出していた。まず走り出すことが肝要であり、行先や経路は二の次三の次であった。

戦争する場合のように、軍司令官があり、下に幕僚があって実行するのとは違って、吾々(われわれ)の維新運動は斯様なものではありません。維新運動は下から燃え上がってくる信念でありますから、具体的なことは決定しなくとも互いに心と心とが連絡して、いざとなれば実行できたのであります。
(栗原調書。事件後に憲兵が取り調べたもの)

同志を固く信頼する青年将校たちの純真さはカミカゼ精神に近いものも感じさせるが、栗原のこの言葉からも蹶起計画は成否の行方より動機先行で走り出していたことがわかる。

蹶起軍を指導した青年将校は大尉クラス。彼らがまとめ上げた計画を実行に移すのは、中隊を受け持つ中尉・少尉の将校たちであった。彼らが蹶起計画という名の“任務命令”を受けたのは、早くて23日、遅い者は25日の夜であった。

そもそも26日実行の決意が四日前の22日になされたわけだから、部下たちへの任務の通告も慌ただしいものになる。秘密保持や考える時間を与えず決意させる狙いもあったのだろう。

歩兵第三連隊の高橋太郎少尉の調書にはこうある。

私は二十四日の朝、中隊へ出動しますと坂井中尉より次のことを聞きました……お前は渡辺大将を殺害せよ、これに関しては安田少尉が計画しあるをもって安田少尉と協議せよ

その安田少尉の調書には、

二月二十五日午後二時、中島少尉の下宿において留守であったが村中孝次と会見しました。それは実行部隊の準備が完成したることを村中が私に告げるのであります。その中に中島が帰って来て、いよいよ二十六日の黎明を期して断行すると申し合わせました

蹶起に加わった将校らはおおむね現政権を打倒する昭和維新計画に賛同していたものの、決意のほどには濃淡があった。なかには周囲の空気に圧されて仕方なく参加したような将校もいた。

歩兵第三連隊の麦屋清済少尉の調書。

問 今回の行動を起こすことをはじめて知ったのはいつか
答 二十五日夜十一時半頃中隊の将校と下士官全部が集合した時、坂井中尉殿からノートに書いてある計画を示され、はじめて事件計画の概要を知りました
問 その時間いかなる決心をしたるや
答 中隊全員の出て行くことゆえ、やむを得ざるものとして行動をともにすることに決心致したのです
問 やむを得ずと言うのはいかなる意味か
答 やむを得ずと言う意味ではちょっと違うかもしれません。私は始終坂井中尉殿から時局に関する色々な話を聞いておりましたので、これに共鳴し憤慨していたところの一人でありますから、すでに機は熟し、実行すべきときに到達したのだと考えたので、斎藤内府(殺害された斎藤実内大臣)辺りには気の毒なるも、仕方がないと言う意味なのであります

二十五日の夜十一時半といえば決行数時間前である。こんなギリギリになって閣僚殺害を命令された麦屋少尉の胸中は察するにあまりある。

もうすでに決意の固まっていた将校ほど通告の時間は早く、どっちに転ぶか正直わからない将校ほど通告時間はギリギリになったらしい。

ちなみに高橋少尉と麦屋少尉に決行を伝えた歩兵第三連隊の坂井中尉は、二十三日の夜に同連隊の安藤大尉から命令を受けている。通告時間の早さは坂井中尉の決意が強く首脳陣から信頼を置かれていた表れでもある。

その坂井中尉はこの年の二月九日に結婚したばかりだった。坂井中尉がその決意の強さを認められながら、謀議のメンバーにも呼ばれずギリギリまで知らされなかったのは、新婚だったことと無関係ではないかもしれない。

上官の命令には絶対逆らえない軍隊の規律も強く働いたとはいえ、蹶起部隊は一糸乱れず「互いに心と心とが連絡して」行動をともにし、政府中枢に突入していくのである。

※将校たちの調書はすべて松本清張の『二・二六事件』より引用









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?