カップ一杯のひととき

味わう。いつもよりも長く口に留める。苦い、でもとても良い香りだ。微かに酸味も感じる。今日僕は初めてコーヒーを注文した。カフェに立ち寄っても注文内容はストレートティーの一択のみというつまらない男だった。他人からどう思われようと関係ない、ストレートティーが大好きなのだから何も気にする必要がないだろうと自分に言い聞かせ数あるメニューの中から瞬時にストレートティーを見つけ出す。もしかしたら僕の前世は豪華絢爛なお城に住む英国貴族なのかもしれないとふと思う時もあるほどだ。ストレートティーと書くよりも紅茶の方が良さそうなので紅茶と書こう。いまさら気づいたが紅茶でよかったようだ。いちいちストレートティーと書いていたのでは読みづらいということにようやく気づいた。それにしてもストレートティーというカタカナは綺麗だ。トティーの部分に魅力を感じる。おっと失礼、心の声を出す癖があるので多目にみてほしい。しかしこんなにも紅茶好きの僕がコーヒーを注文した。「コーヒーをショートサイズでお願いします!」これは店員も戸惑いを隠せないのではないか?震えた手でレジを打つ姿を容易に想像することができた。そんな妄想をかき消すようにレジの音が響き渡る。「マグカップにしますか紙のカップにしますか?」と嫌みのない笑顔で質問された。僕の注文には何も関心がなかったようだ。5秒間悩んだ末にマグカップを選択した。すぐに料金が表示され支払いが済むと綺麗な白いマグカップに注がれたコーヒーがゆらゆらと白い呼気を吐き出しながら近づいてきた。コーヒーを受け取り席を探し始めるが中々席を見つけることができずにフラフラしていた。最初に席を確保しておくべきだったと後悔したがすぐに席が空いたので駆け足で向かう、途中親指にコーヒーがこぼれて小動物のように驚いてしまったがこれも温かいコーヒーを楽しむ為の一つのイベントだと思い冷静に着席。何事もなかったかの様に脚を組み、慣れない手つきでマグカップを揺らし香りを楽しむ。初めて注文したコーヒーを隅々まで楽しみたいという強い思いからかすぐにカップに口をつけることはしなかった。本能がそれを拒んだのだろう。香りを楽しんだ後コーヒーを眺めていると一瞬で吸い込まれそうになった。まさにブラックホールである。透き通る黒に感動さえ覚える。ずっと眺めていたいと思う自分に恐怖を感じたのですぐに飲むことを決意する。恐る恐る一口、コーヒー豆が頭の中で爆発した。今この空間はコーヒーで支配されている。コーヒーの椅子に腰を掛け、コーヒーの机に肘をついている。周りを見渡すとコーヒー豆が動いている。奥のコーヒー豆は夢中で勉強している、隣のコーヒー豆は折り畳みのコーヒー豆で文字を打っている。コーヒーでできた世界だ。豆の生産地が背景に浮かぶ。作り手の気持ちを五感で味わうそんな一杯だった。「すみません店員さん!コーヒーもう一杯お願いします!グランデサイズで」僕はこれからコーヒーという文字をメニューで探す日々が続くだろう。早く慣れるといいな。「コーヒーですね!ありがとうございます!」嫌みのない満面の笑みを浮かべる綺麗なコーヒー豆に胸を打った。

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