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お酒について#56

 16時30分に旭川空港を離陸した日の丸をモチーフとする、鶴のマークのジェット機が日本列島の太平洋沿岸を沿うように飛び、羽田空港を目指す。17時15分頃、太陽はすでに西の地平線下に姿を消しているが、窓の外は暗黒から青、赤、そしてまた暗黒へ、簡易なPCでは再現できない、人の視覚が捉えられるだけのめっぱい、何十億に細分化された素晴らしい日没のグラデーションを高度一万メートル上であるが故に数十分間継続的に魅せていた。

 窓の下を覗き込むとリアス式海岸を抜けて、スムースなライン取の海岸線を暗闇の中確認できる。震災から10年、現地に足を運んだ事は無い。メディアで知る限り、地球規模の災害がその局所に発生も、その現場沿岸は被災当日を遠い夢の如く整備され、次なる津波を地上に押し寄せさせない為の工事は終わっているか進行中でありましょう、この下で圧倒的水量の波に捕らわれ何十何千何万という人々が命を落とした現実は、鳥の視点として被災者への追悼を安易に許さない実際の結界的な現場力を突きつけられる。

 さて、人は生きているとなぜかどこかに行きたくなる。知らない街を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい。という歌がある、歌うはジェリー藤尾氏、作詞の「こんにちわ永六輔です」と日曜早朝。お二方とも鬼籍に入った、いつかは自分の年代の番である。

 コロナ以前、旅行代理店は空前の売り上げを挙げていたと記憶する、人がどこかに行きたいムズムズを抑えられない生き物であれば、拘束を罰とする留置所や刑務所は人間の生理に則したものであるといえる。タバコと酒、または薬漬けのヤクザ者もそこに入居が決まればそれを断てる喜びを発する例えは映画。それは陳腐な強がりでしかないし、その映画の脚本を書いた作家はそのセリフで役柄の設定を表現している。

 現場の説得力は簡単に言い表せない。駅前の巨大イオン、その中の広い広いゲーセン、日曜日の日中、嬌声をあげる中高生、その建物の前では肥沃な土地をくねるように流れる透明度の高い川の水、旭川市の中心部を歩きながら、例年の積雪、その寒さを想像して、なんとも言語に還元できない感情が湧く。歴史ある公園で紅葉した木々がミシミシと音を出すように葉を抱擁し、カラスを主とする鳥類が夕刻の主人公に名乗りを挙げる。彼女はその晩秋を少ない数年見届けていただろうか。人の過ちというものは、実際のやった事に対して、運よく蚊に刺された程度の反映しかならない時にもあるが、風が吹けば桶屋が儲かる、バタフライ効果で想像もできない最悪の結果を生む時もある。

 思春期はよく旅に例えられる、親を離れて実力を試すには家出が1番である、だから家出する、捉えられ帰る。家出までしなくても精神的家出を日常で挑む。思春期の、その全能感は親親戚を飛び出し時に社会全体に発露する。けど誰であろうと実行し、その結果起きた事は元に戻らない、強がりの、思春期共同実行者グループが被害者を生じさせたと断言する。旭川市とその他全人類は永遠に彼女の魂を弔い、それで得た知己を最大限還元、全人類に活用しなくてはならない。

絶対に無かった事にしてはならない。無かった事にする事例が日本全国津々浦々にあるからである。

以上。


 




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