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お酒について#64

 寄席やホールという密室空間自体は元々言いたい放題が初源的性格である。落語家やミュージシャンが舞台、ネット世界関わらず、政治的な、突出した発言が増えたのは3,11が発端だったと仮定する。

歴史に残る大きな地震、津波。それに原発の電力過失が加わり、それらに対する文化人の発言は密室で言い慣れる性格上、特別驚く事では無かった。

ただ、科学を無視した原子力発電所に対するネガティブな感情の吐露の多量は、その発言者が有名人、市井の人に関わらず、放射線対策に投入する作業とそれに伴う莫大な予算を決定する政府に影響したと言える。

さらには、例えば、福島市で魚屋を営む高齢のご夫婦のような存在を勝手に脳内で醸成し、その夫婦が置かれた不幸的立場から政府を呪うような、異常な雰囲気がミュージャン内で作られていた。

それはタイマーズのなんとか野郎東京FMや、爆風スランプの「放射能やだー」の抽象的メッセージより直接かつ、具体的に原発や政府(当時は民主党)を責め、影響を与えたと思われる。

さて、芸能、芸文、スポーツで生きる人が一芸で、誰よりも突出する事は大変である。談志、故志ん朝の影に永遠に追われる。三島由紀夫、川端康成が貰ったノーベル文学賞、欲しかった。現時点、巨人の岡本、ヤクルト村上にやや隠れる。

一流と称される者も常に隣にいる同じ天才に破裂寸前の巨大ゴム風船の様なものに圧迫されて、心象的に大変なストレスを受けるのである。

気付くと、隣に虹色で彩られる魅力的な穴が空いている。現政府批判の安易な入り口である。

今年、水道橋博士氏(近隣)が選挙前、維新の議員を招いてroftで議論イベントをやろうとして、その議員は急遽非出席になって「坩堝内でやりたくない」というまともな意見を読んでそれは良かった。イベントとして与党批判主義の一辺倒にはなりたくないという事でありましょう。ただ氏は政党内に入りましたので党首にならない限り、耳目を集めるニュースは出てこないでしょう、社会党に入った大橋巨泉と同じ運命を味わうと個人的、未来予測的に思っている。

横道にそれつつ何が言いたいかと申しますと、立川談志氏はたまに寄席の客に語りかけるも、その客本人には語ってなかった、目のピントはその客に定まってはいなかった、実際に語りかけていたのは客のイデア、世界のイデアであった、それに一番ビビって落語をやっていたとアタクシは思う、対世界である、ビビらない方がおかしい、その均衡が、談志落語が発する異常な緊張感の根源であったといえる。

さて、反社会的共産主義的落語家、音楽家は自分のとこのお客に全くビビってない。自己催眠的、傲慢高座舞台である、その芸風、その音楽性で永遠に木戸銭を取れたらそれはそれで素晴らしい事でありこれ以上アタクシごときが言うことはない、客がバカなだけである。三遊亭圓楽氏の復帰公演に「松本ヒロ」大衆芸能が大衆を置いていってる客観性を悪魔的に無視しているのが、今の落語の本流であると私は言いましょう。

落語界は『安倍政治を許さない』に未だ拘泥している、永遠に拘泥していたらよろしい。

ただ「音楽」は落語と同調していたと思われる一時期を幻想に、持ち前の若さで科学を取り入れ、既に落語家から見えない先に行ったと言えましょう、ギターストラップに『NO NUKE』書きゃいってもんじゃないと気付いている、コンセプトやコピーのインパクトは大事である、大事だが感情より科学が裏打ちされていないと、それは砂上の楼閣である。日本人は賢い、音楽家も賢い、賢いから震災から10年かけて無意識下でそれを学んでいる。

サヨク芸人は終点に着いた電車内で、未だ目的地に着いていないと1人芸である。

以上。


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