7月14日 マサ斎藤さん 命日 1987年のグダグダ
2018年7月14日にマサ斎藤さんがなくなって、4年経った。
歴史的知識としては、
1964年東京オリンピック レスリングフリースタイルヘビー級代表
豊登が興した東京プロレスにアントニオ猪木とともに参加
アメリカでケン・パテラが起こした器物損壊事件に巻き込まれて刑務所へ→のちに「監獄固め」を開発
くらいだろうか。
私がテレビで実際に視るようになってからでいうと、最もインパクトが大きかったのはやはりこれだろう。
引用すべき画像が違うような気がするが、とにかくまずはこれである。
現在までの50年間に、何度も何度も大小さまざまなややこしい事態を乗り越えてきた新日本プロレスだが、この1987年もバタバタしていた年だったと記憶している。
テレビでこの試合を実際に視ていた時は退屈きわまりなかったのだが、猪木さんの考えることは常人がすぐに理解できるものではないのであろう。
同じく1987年3月の大阪城ホールでの対猪木戦では、段取りを間違えた海賊男が猪木ではなく斎藤さんに手錠をかけてしまい、その後の展開がグダグダになったこともあった。
さらに1987年12月の両国で、ビックバン・ベイダーを日本に初めて連れてきたのもマサ斎藤さんである。
この興行は「新日本プロレス・グダグダの歴史ランキング」のかなり上位に入ると思われる。詳細はあちこちで言及されているので書かないが、要するに「たけしプロレス軍団」である。
また、この興行では、馳浩選手が凱旋帰国していきなりIWGPジュニアヘビー級を戴冠したが、そのことも叩かれまくっていた。
私は馳選手のファンなのでそこまで叩かなくても思っていたが、もちろんこの当時、この人が将来大臣になったり県知事になったりするなどとは全く思いもしなかった。
その後のマサさんといえば、橋本真也選手とともにタッグを組んで武藤&蝶野組などと戦っていたのを視ていた記憶もある。ひねりの効いたバックドロップや監獄固めなどを駆使して「史上最強の50代」と呼ばれて選手として活躍していたのはよく覚えている。
が、それ以上に辻義就(当時)アナとのかみ合わないタッグのほうが印象としてははるかに強い。
アメリカ暮らしが長かったせいか日本語自体にややおぼつかないところがあったし、盛り上げよう盛り上げようとする辻アナに冷水をぶっかけるような発言ばかりしていたように思う。マスクマンを本名で呼びまくったり、他にもとにかくさめるような話をすることが多かった。
実況アナと解説者の話は、いずれあらためて書こうと思うが、まったく盛り上げようとしない解説という点ではジャイアント馬場さんと双璧だった。
亡くなって4年経ったが、現在もNOAHのマサ北宮選手の試合をときどき視ると、マサ斎藤さんを思い出す。
解説者としてはイマイチだったと私は思うが、プロレス史に名を残す名レスラーの一人だったことに間違いはない。
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