見出し画像

震災ボランティアの思い出

まもなく東日本震災から10年ということで、自分も参加したボランティアの記憶をつづってみよう。

数多くの組織が被災地にボランティアを送り込んでいたが、PというNPOが毎週金曜に新宿から石巻に10台ほどのバスを出していたので、GW明けにこれに乗ってみた。

数名に班分けされた参加者は宿泊所を提供され、1週間自炊しながら瓦礫撤去などの作業にあたるのだが、わたしの班は老舗料亭に寝起きした。

そこは北上川の旧河口から300mほどに位置し、付近は河を遡った津波に襲われており、被災から2か月ほど経ったヘドロは生乾きのため、スコップで掬っては土嚢袋に詰めるのである。

いちにちの作業のあと背後の丘に登ってみると上の写真のような景観が見渡せ、眼下に広がる瓦礫のヘドロからと思われる生臭い匂いが強く感じられた。

生活インフラがすべて失われていたため炊事は地べたでの登山時仕様だったが、トイレは近くに自衛隊が開設したものを使わせてもらった。かれらは直径10メートルもある野戦用風呂も設置していたのだが、地元優先ということで、われわれは寝袋に潜り込む前にウエットティッシュで身体を拭くだけだ。

画像1

作業前に脇を流れる河の中州を訪れてみると、半壊になった奇妙な建物が目についた。

ひとつはUFOのような半球形の「石ノ森正太郎マンガミュージアム」で、館内には漫画家の作品があたり一面散乱していた。

手前のものはハリストス教会(ロシア正教)で、木造民家風の珍しいものだが、1階の壁がやられていて使えそうにない。


このあと夏・秋と、東松島と岩手の三陸沿岸部にも出かけてみたが、そのころにはヘドロもすっかり渇き、家の床板をはがして瓦状のものやごみを撤去したり、全国から集まった品物を配布する仕事に従事した。

わたしのような退職者は1割くらいで、ほとんどの若い人たちは転職の合間とか、仕事を一時中断して駆けつけたようだ。

西洋人の小グループも目立ったのはかれらのボランタリー精神の現れなのだろうが、コミュニティー毎に活動しているようだった。

言いにくいことだが最後に記してしまうと、当時メディアが伝えたような「日本人の略奪は無かった」などということはなく、釜石のある地区には県外ナンバーの車が押しかけて略奪を繰り返したので、地元の自警団が地区を封鎖したと聞き及ぶ。

津波の被害は紙一重の差で、及ばなかった地区の住民はおしなべて我関せずの態度だった。自分も同じ立場ならそうしただろうから、決して避難などできないのだが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?