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ADHDと私とみんな

最近ではADHDという言葉自体に聞き馴染が多い人が
増えてきているんじゃないかと思います。
よくSNSなんかでも話題に上がったりしてどういう感じなのか
イメージを持ってる人も徐々に増えてきてる気がしています。

「私も1年前くらいにADHDと診断されました。」

なんかこう書くとスゴイ病気っぽいし威圧感あるし
ADHDって診断されたんだ!みたいな、なんか重い病気的な
イメージを掻き立てる感じがしますね。

ADHDも重症度が人によりけりで、私は他の人の話を聞く限り
「自分は軽度だな」と思っています。

ADHDの詳細は色々ネットに上がっているので説明はある程度省くとして、
私は『注意欠陥』『多動性』『衝動性』全部を少しずつ持っています。

でもこの『少しだけ』が実はスゴク大変でスゴク大変じゃないんです。
私は少しでこんな大変だと思っているのに、ほかにもっと重症の
人の話を見聞きするとそれはもう地獄だと思います。

ただ、この『大変だ』と感じたのはADHDと診断されて、
自分がADHDだと認識してからです。

『スゴク大変じゃない』というのは私が
自分がADHDだと診断されるまでは全員同じで
みんな同じ苦しみがある中頑張っている
と思っていて、そして認識するまでの何年もの間に自己対策を
無意識に積み上げて慣れてしまったからです。

「だってさ、みんな頑張ってんだもん。
みんな同条件で頑張ってんだもん、自分は頑張って頑張って頑張って
やってもやってもやっても何回も同じことを繰り返して繰り返して
前に進まない。でもこれって自分の努力が足りないからなだけで、
みんな同条件の中頑張ってやってる。何ならもっと頑張ってる人がいる。」

ずっとこんな感じでした。
これADHDって知らないから「大変だ」とは思わなかったんですよね。

そんでこれADHDじゃない人がみたら
「いや当たり前だろ、みんな頑張ってんだよ」って思うと思います。

実際そうです。みんな頑張ってるし自分だけ大変じゃないんです。

私はみんなに「ADHDだから仕方ないんだよ」とか
「ADHDって大変なんだよ」ってことを伝えたいんじゃないんです。


どれもこれもみんな一緒でみんな個性なんだよ


ADHDが病気だっていうなら、みんな何かしらの「病気」だと思うんです。
ただ名前がついてないだけ。みんなが知らないだけ。
だからその個性を認め合うことが人間としての本当の生き方だと思う。

・自分の話ばっかりで人の話は聞かない人

・個人の主張が激しい人

・自分の正しさ以外は認めない人

よくいると思います。
私の経験上ではこの三つは共通している人が多かったです。

でも、名前はついてません。

私はADHDでよかった。ADHDという名前がつくことで
周りに迷惑をかけてしまう可能性があることが理解できた。
対策が立てやすくなった。

でも名前がついてない人は自分で探して見つからないこともあるし、
そもそも探すという行動に出ないこともあるだろうし、
自分をさらに良い方向へもっていくための対策も
名前がついてない分探しにくい。

名前がついてない分誰にも苦しみを理解してもらえないかもしれない、
苦しんでることにすら気づかないかも。

人と関わり合う中で大切なのはやっぱり「個性」の尊重だと思います。
知らないから拒否するんじゃない、自分と違うから否定するんじゃない。

あなたが知らない世界はあなたが知らないところではとっても素晴らしい

だからと言って全てを受け入れろとは思いません。
あなたが思う範囲で受け入れ、違うと思うのであれば手を差し伸べる、
そういうことが平然と行われる社会であってほしいと私は思います。

これはみんなです。ADHDだとかそうじゃないとか関係なく。
お互い必ず『何か』あるんです。

私はみんなと個性を尊重し合える社会づくりをしたい。


ほかにADHDのことについて語りたいことはありますが、
まずはこの辺で。


普段気にしない『無意識』な部分を意識し、気になったことを日々追求していきます。