「孤独と幸せ」
孤独であることは、実は本質に向き合えるいただきもの。
数年前に、どうしようもない孤独にさいなまれたことがあった。
とはいえ、
友人の数はきっと平均よりも多いほうだし、
両親も健在ではあり、近所の友人もできた。
相談相手にはほど遠いが子供も二人いるし、内省する時間を全く与えない。
(内省したい案件があるときは地獄wのようだけど、なんとか先送りにして向き合っている)
なのに、なんとも黒い箱のなかにひとりぼっちになった気がして、
外への扉がわからない。
闇がみしみしと体の奥へ入っていく、
その時は、そのまま自分も闇にすこしずつ溶け込んで、自分が無くなってしまいそうな気がした。
完全に闇に溶け込みそうになった瞬間、ふとこう思った。
「こっちは、自ら望んでこの場所にいるんだよ。」と。
ふと闇がきえて、真っ白なところに私は一人でいた。
恵まれているのか、考え方次第なのか、
未だかつて、自分以外の選択で生きたことはない。
だれかに求められたことも、
進もうとしたのは自分であるし、変えようとしたのも結局自分だ。
起業も結婚も出産も引っ越し、大きなことだけでなく、今日何を食べるかということまで、当たり前だが意思決定を自分でしている。
自分にないものを、
自分にできないことを
自分に足りないもの、
人の承認をもとめて
人とつきあうのではなく。
自分だけで、何を足しても何を引いても
幸せである状況を、作り続けていたい。
そうしながら、独立した人々が、互いに影響を与え合って
生きていく。
その先にしか、幸せはないのだと思っている。
だから、基本私は幸せだ。
自分で好んでつくった世界に、いつも身を置いているから。
ー
「自分はどう生きたいか、どうありたいか」ということを改めて模索している。
それを考えるには、このコロナショックの時期は、格好の機会だったのだ。
スタートダッシュをするには、まだアイデアの輪郭があやふやで、
見えてはいるんだけど、まだもう少し言語化したい。
いたずらに焦らされる必要はない。
「時間はまだある」
だから、今は、あまり人前で話す気にはなれない。
だけど、みんなそれぞれの経験をしたから
偶然街角でであった友人たちと、
ハグしたいんだけどディスタンスとらなきゃなのでハグできない、
距離感にもかかわらず
もう居酒屋二軒目みたいな話すらしてしまえるのだ。
自分が経験したり感じたすべての事が、
自分の為だけのこやしでなく、
社会性を帯びたものであってほしい。
自分の感受性や、自分の経験が、
人によりそい、しずかに優しさを届けられるものであってほしい。
そのための、自分の安定感のある基盤作り、在りたい自分像はきっと、そういうところにある。
絶望の上にしか希望がないように
諦めの上にしか、自信はないのかもしれない。
最近の私は、周りに対してちょっぴり諦めている感じがあるのだとすると、
それもまた、次のステージの自信や希望の前準備なのだと思う。
自分に対してだけ諦めなければ、それでいいのかも知れない。
そして、一つだけ言えることがある。
本当に大切なことは、コロナ前もコロナ中もコロナ後も、
一切、何も変わらない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?