わかりやすいことや聞き心地のよいことこそ、疑ってかかるべきなのだ〜アウトサイダー・アート
わたしはアウトサイダー・アートやアール・ブリュットと呼ばれる、いわゆる一般的なアートとは違うアートがけっこう好きです。惹かれます。
自己表現や他者(社会)に伝えたいメッセージ、自己顕示、承認欲求といったものを起点とせず(これはかなり乱暴なものいいだけれど)その(作りたい)無垢というより剥き出しの思いから生まれるものたちに。
本書『アウトサイダー・アート 現代美術が忘れた「芸術」』のあとがきで著者が紹介する自身のエピソードには、わたしがそうした作品に惹かれる理由の一端が表現されていて、なるほどとなりました。
福祉施設で知的障害がある人が作ったコーヒーカップでコーヒーを飲む時に気づいたこと。
一般的に商品として売られているものよりも重かったり不格好だったり、利便性でいえば紙コップにも劣る。
一時は職員が仕立て直して販売していたらしいけれど、一般に流通しているものと同じようなものを作っても意味がないからやめるよう、絵本作家の田島征三が忠告したとか。
むしろその使いにくさ、他にはない特徴をウリにするべきだと。
著者はその使いにくい(飲みにくい)コーヒーカップを
使いにくいけれども、使いながらつくり手との対話を楽しんでいるような豊かな時間を過ごすことができる器だと思う。
と評しています。
利便性、合理性といったことを追求することでこぼれ落ちてしまう余裕や遊び心。それを思い出させてくれると。
日々の生活には、ところどころに負荷や引っかかりがあって、簡単にはコーヒーが飲めなかったり、スイスイとは歩けないほうが面白いのかもしれない。
また、こんな警鐘も。
アートで癒やされるということをよく耳にするが、私はそれをあまり信用していない。疲れを癒やすだけのアートは、当たり障りのない凡庸な作品ではないかと思う。作り手が真剣勝負で挑んだ表現には、それを見る側も万全の体調と精神状態で臨まなければ太刀打ちできないと思う。
著者は巨大な美術館という建物で働いていて、その中で来場者からのクレーム(動線や順路がわかりにくい等)を日々受け取っているらしく、それについては(職員としては)申し訳ないと対応しつつも、個人的には違和感を感じている。
わかりやすいこと、便利なことばかりを求めていると、大切ななにかを失ってしまうのではないかと心配している。
世の中がわかりやすいことばかりだと、きっと退屈してしまう。というか、そんな社会は薄っぺらいと思う。そもそも、わかりやすいことや聞き心地のよいことこそ、疑ってかかるべきなのだ。私はアウトサイダー・アートからそのことを学んだ。
アウトサイダー・アートに限らず、アートというとトゲは、私たちの心にさざ波を起こしてくれる。その驚きや不安がアートのちからだ。アートに驚かされる気持ちを忘れているとしたら、それは心が潤いを失っているからかもしれない。ご用心のほどを。
例の感染症騒ぎでいろいろと制約があって(マスク等)美術館なんかにも全然行けないのがさびしい今日このごろ。(マスクくらいすればいいじゃないかと言う人もいるけれど、ならば逆にしなくたっていいじゃないか)