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2015/9/2 EDEN

"EDEN"、それは旧約聖書に帰来する"楽園"の代名詞――

「エデン」と聞くと「楽園」という風に思われがちだが、実は、本来"EDEN"は"平地"の意であり、それ自体に"楽園"の意は含んでいない(だから「エデンの園」という言い方が正しい)。

だから、日本版キャッチコピーの「音楽さえあれば、僕らの楽園は永遠に続くと思っていた――」という儚げな言葉が既に、「"EDEN"って楽園って意味じゃねーから!」という突っ込みを避けられない空しさを孕んでいて、もう既にこの時点で、楽園などという幻想を追い求める頭の悪さが露呈してしまっていて切ない。脳内お花畑から香しい匂いがダダ漏れしている。

かような誤認含め、そもそも"楽園"という言葉自体、現実逃避を求める愚かな人々の空想の産物であり、この映画『EDEN』においても主人公を筆頭に、そんなタイトルに寄せられて集まった、なかなかズットでピュタンな人々のヒューマンドラマになっているのだが、そこは流石おフランス(皮肉)のフレンチタッチな描写と選曲で素敵な映画に仕上がっている。

というか率直に言わせてもらうと、この映画「ドラッグとセックスにまみれながら夢を追いかけたクズ男のヒューマンドラマ」なのだけど、パリに憧れがちな日本人の「フランス映画補正」の働きによって素敵映画になってくるから、わあ不思議。観覧者も大概がパリ症候群待ったなしの脳内エデン。

   * * *

物語は青年Paulが隠れクラブみたいなところへ行くのかと思いきや中から出てきて、そのまま家に帰るのかと思いきや森で野宿する、というよく分からない展開から始まる。既にドラッグをキめ済みなのか、見上げた空には、タイトルの"EDEN"になぞらえた極楽鳥と思しき彩色豊かな一羽の鳥が舞う――

実写にアニメーションの鳥を重ねたその技法に、「これは面白そうな映画の気配がする……!」と色めき立ったが、アニメーションの表現があったのは後にも先にもこの冒頭のワンシーンだけで、ついでに、この作品にはやたらとドラッグが付いて回るので、まだこの時点ではドラッグと無縁だと思っていた主人公が既にジャンキーで、極楽鳥はラリったPaulが見た幻覚だったのかもしれないが、その真偽は映画を観終わった今も結局分からないままである。

さて、野宿明けのPaulの元に親友Cyrilがやってきて(あまりの仲の良さに2人はゲイカップルかと思ったら違った)、ふたり連れ立って再度クラブへと足を踏み入れる。クラブに興味があるのか無いのかよく分からないが、そこでDJがかけていた曲に惹かれ、唐突にPaulのDJ人生がスタートする。ちなみにPaulと共に、僕もこのOP曲的な1曲が滅茶苦茶ツボに入ってしまって物語の行く末が楽しみになったのだが、悲しいかな物語が進むうちに僕のテンションも主人公Paulの半生と同じく盛者必衰と相成った。

Sueño Latino ‎"Sueño Latino" (Derrick May's Illusion First Mix) https://www.youtube.com/watch?v=fqG0icDj6kU

Paulが若くしてDJとしての才覚を表し、DJユニット"Cheers"のメンバーとしてシーンを昇っていく第1部と、親友の自殺から始まって、ブレイクできずに真っ逆さまに堕ちて行く第2部の2部構成。時間にして1992年から2013年、つまりThomas BangalterとGuy-Manuel de Homem-ChristがDarlin'として活動し、その後Daft Punkを結成して世界的なアーティストになり、『Random Access Memories』を発表する年までと重なる。

この作品、PaulとDaft Punkの陰陽を対比させ、眩過ぎるDaft Punkに対して落ちる影が濃過ぎるPaulの凋落っぷりもさることながら、全編通して彼の恋愛模様が相当に酷い、非道い。碌な女がいない。敢えてその辺に着目してnoteを綴る次第。

1人目の恋人、アメリカ人女性Juliaは小説家志望で、真面目な恋愛をしていると思いきや、ニューヨークに旦那が居て、一時的にパリにいる間の恋人という関係。要は不倫だ。ついでに去り際は置き手紙残して黙って帰米、「あなたとの別れが辛くなるから……」などという自分勝手な言い訳を添えて破局。

よくあるようで、あまり見ない「数年後……」という字幕の後(本当に久しぶりにこういう繋ぎ方見た)、突然現れた2人目の恋人は同業のDJで、この作品中、Paulの恋人たちの中で最も存在感の薄い小さな女の子。大した盛り上がりもなく、次の恋人にジェラシーを抱かせる描写を描くためだけに存在していたのではないか……というくらい、名前もまるで覚えていない、哀れな女の子。

3人目の恋人は本作のヒロイン的存在のLouise。可愛くて美乳。ただし、これがとんでもないビッチで、PaulがまだJuliaと付き合っている頃から、帰れなくなってPaul宅に泊まりに来ていきなり自分からPaulの寝込みを襲おうとするし(このときのPaulはまだ真面目だったので拒否した)、Paulと付き合いだしてからはやたら2人のセックスの描写が入るし、Cyrilが自殺した後には恋人が死んだくらいの勢いで号泣するし、それも「本当はずっとCyrilが好きでした」みたいな空気まで醸し出して、呆れたPaulに逆ギレしていきなり破局。感情の起伏が激し過ぎる面倒な女。

4人目の恋人はMargauxとかいうモデル体型の勘違いブス(Paulにとってはブスじゃないみたいだったから、憧れの美女だったようだ)。人の金で勝手にシャンパンのボトルをたくさん開けて、騒ぐクラブの女。こういう女いるわー、会ったことないけど居そうな気がするわー。で、一緒のベッドに寝ておいて、Paulが手を出そうとしたら「やめて。私は安心できる人と一緒にいたいの。あなたはそうでしょ?」

は? いや、もう一度訊く。はあ?

「何言ってんだこのブス」という言葉が、多分ウサイン・ボルトより高速で僕の脳内を廻った。もう少し良い顔持ってきてから言えよ、このブス。こんなのにほだされてんじゃねえよ、Paul。だからお前はダメなんだよ。と思ったら、流石にPaulもキレて突然破局。この頃には既にPaulは負債まみれで、30前後にして母親の預金を食い潰し、主催イベント帰りのタクシー代すら出せないほどだったので、Margauxは落ち目の彼に、止めを差すために登場した悪魔のメタファーのようなものだったように思う。

5人目はCheersのイベントに来ていたJasminというアラブ系クラブ系女子。素行不良の設定でスタートしたが、歴代の彼女たちの中では1番まともだった。と言いたいけど、朝からドラッグキメちゃうような子なのでやっぱりアウト。この映画見てると皆気軽にドラッグ吸い過ぎてて、それが普通みたいに見えてくるからあぶない。ダメ、ゼッタイ。

6人目の恋人は(まだ女変わるのかよ!と言いたくなるが)離婚してパリに戻ってきたLouise。ごく自然な感じでJasminと並行して付き合っている風だから、ごく自然な感じで浮気しているということになる。もうダメだ、こいつら。まるで成長していない。矢沢の映像を見た安西先生の顔が浮かぶ。

Louiseは子連れでパリに戻ってきて、Paulと付き合い始めて、だけど仕事が無くて地方に舞い戻ることになって、実は(この短期間で)Paulの子供を妊娠して、だけどPaulに相談したら修羅場になるだけだからもう堕胎したとか言い出す始末。この女まともな脳味噌が入ってないんだと思う。フランス人女性は、あんなのがフランス人女性代表だと思われたらたまったもんじゃないだろう。ついでに、勝手に子供を堕ろされて大号泣するPaulもPaulだよ。子供もお前みたいな男が父親にならなくて良かったかもしれないよ、とさえ思ってしまう。

改めて振り返ると本当にまともな恋愛をしていない。「いつか売れる」を夢見て、歳と借金を重ね、30歳を超えて漸く薬物中毒と多額の借金を母親に打ち明けて更生。つくづく同情の余地が無いし、感情移入もできない。最後はDJから足を洗って会社で働き始めるとともに、学生時代評価されていた文学に再度取り組むべく作家教室に通い始めて、漸く真っ当な生活を送り始めるる――ここで新しい女の子が現れてどきりとしたが、7人目にはならなかった(少なくとも作中では)。

最後まで名前を覚えられなかったPaulの相方が、この映画唯一の真人間かもしれない。惰性でDJをし続けて摩耗するばかりで、哀れな貧乏人になり下がったPaulに対し、彼は妻子を持ち、細々とDJをしながら真っ当に暮らしている。彼の存在によって「DJ=真っ当でない、家族を食わせられない」というPaulが最後の言い訳にしたくなりそうな偏見を認めさせずに済んでいる。DJやってても真っ当な人は真っ当なんだよ。存在感は薄かったけど。

   * * *

耳触りの良いキャッチコピーより、「ダメパリジャンDJの半生」と副題を添えたくなってくる作品だが、本作を語る上で欠かせないのがDaft Punkの存在だ。

物語が始まってすぐ、思いの外早い段階で2人の存在は提示されて(しかもそこに「Darlin'」という単語まで出てくるので内心とても盛り上がった!)、本作品の最初から最後まで、彼らはPaulとの対比の役割として常に"イケてる存在"として描かれ続けており、やたらと褒められ、持ち上げられている。監督が好きなんだろうな、多分。

Cheersより一足先に名を上げ、その後は一歩、二歩と先を行き、最後には圧倒的リードを広げてゴールする。そのふたりを演じた役者達が、若かりし日のThomasとGuy-manに結構似ていて、実際にあったエピソードも交わって、見ていて面白い。

『ONE MORE TIME』や『Da Funk』等、往年の名作からの楽曲ばかりでなく、さらりと『Veridis Quo』や『Within』等の、バキバキのダンスミュージックではない楽曲を持ってくるあたりのチョイスが非常に良い。時代の変化とPaulの人生の浮き沈みを如実に表していて、時代に選ばれなかった主人公の栄枯盛衰を、見事に浮き彫りにしている。

正直、Daft Punk出てくるたびにテンション上がったし、彼らがどれだけビッグになっても他人のイベント、ライブのゲストリストに名前が無い&受付に人に認知されず追い返される、というエピソードを小出しにしてくるところはクスリとさせられるが、一方でDaft PunkというビッグネームとPaulを比較して見られるのがひとつの楽しみであるが故に、もしDaft Punkが出てこなかったら大してテンションの上がらない作品だったように思うし、もっと言えばDaft Punkを知らない人が見たら全く面白くない作品かもしれない。

それでも、30歳前後で、突き抜けられずに燻り続けているミュージシャン、すなわちPaulに自己投影、感情移入しやすい環境にある人にとっては、焦燥感と絶望感の溢れる、非常に恐ろしい作品になっていると思う。

「なんとなくライブやイベントを継続できるほどには知名度と集客が続いているんだけど、所謂"ブレイク"に至らない」
「常連をタダで招待し過ぎて収益が上がらない」
「ずっと"そこそこのライブハウス"から抜けられない」
「自分たちのスタイルを捨ててトレンドに合わせた"売れる曲"を作らないといけない」etc……

(バンドやったことないけど)"バンドあるある"が随所に見えて、思わず「この年齢で音楽に夢見てなくて良かった~」などと安堵してしまう。人によっては下手なホラー映画観るより怖いんじゃないか。

天国、理想郷、何物にも煩わされることも一切の苦しみも無い極上の世界――結局、そんなものは命ある間は行けないんだよ。という無常感に満ちたフランス映画だった。

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