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一枚の葉っぱ(同じ思いを共有することに喜びを感じることについて)

わたしはいま、秋の期間限定で、あんぽ柿を作る仕事をしています。
毎日柿の皮を剥いています。
方法としては、まず、柿がたくさん入ったコンテナから、柿をひとつ取り出します。その柿のヘタの部分を下に向け、固定してあるスライサーですります。
スライサーは2種類あり、ひとつはスライスの厚みを変えられるもので、まずこのスライサーでヘタの大部分を削り取ります。それで十分な場合、その柿のヘタを取り除く作業は終了です。まだ不十分な場合は、その隣にある薄くスライスできる方も使います。様子をみて、ちょうど良くなったらスライスを終えます。
ちょうど良いスライスの具合は、説明するのが難しいのですが、ヘタがなくなりすぎず、残りすぎない程度です。見栄えのためにはヘタがある程度残っている方が良く、かつ次の皮むき器にはセットできる程度の削り取り具合、というわけです。
次の工程に移ります。ヘタを取り除いた柿を、皮をむく機械にセットします。まず、吸引機に柿のヘタ側の断面部分を取り付けます。すると、機械が柿の存在を認識し、可動式のスライサーが動き出します。スライサーが定位置につくと、柿がぐるぐるとまわって、皮が剥かれていきます。このとき、スライサーは上から下に動いていきますが、バネが取り付けられているため、柿の皮を剝き終わるとスライサーは元の場所に戻ります。そして、吸引機の圧力がなくなり、皮を剥かれた柿が転がり落ちます。
最後の工程で、転がり落ちた柿に、残った皮や傷がないかを確認し、皮があれば手持ちの家庭用スライサーで取り除き、傷が深い場合は捨てます。うす紫色や茶色のあざのような箇所がある場合も、取り除きます。あざで、取り除ききれないものでも、ひどい状態のものでなければ削り取りきるのは諦めてそのままあんぽ柿にします。また、あんぽ柿の加工には、たねなし柿を使用していますが、まれにたねを持つ柿もいます。その柿は使用せず、処分します。
そうして、皮を剥かれた柿は、3日間乾燥機に入れられ、あんぽ柿になるのです。

前書きが長くなりましたが、わたしが言いたいのはあんぽ柿の作り方ではありません。
わたしが言いたいことは、このような工場での単純作業をおこなう中での、人の心の営みについてです。

あんぽ柿を作る時の、はじめの工程でのことです。わたしは柿のたくさん入ったコンテナから、きれいな葉っぱを見つけました。
きれいだな、と思ったわたしは、後ろの流し台にそっとそのきれいな葉っぱを置きました。そして、そのまま作業に戻りました。わたしの静かな動きを気に留めた人はいなかったと思います。わたし自身、作業に戻ると、葉っぱのことは忘れてしまいました。1日の作業が終わり、片付けに入っても忘れたままで、思い出したのは次の日の出勤の車の中でした。
そういえば、あの葉っぱのことを忘れていたな。でも、ただの葉っぱだから、片付けのときに誰かが捨ててしまっただろうな。
きれいな葉っぱとはいえ、誰もが感嘆するような美しさはありませんでした。
そう思いながら出勤し、その日もいつも通り作業をおこないました。
その次の日ぐらいでしょうか。洗い物の最中にふと前を見るとあの葉っぱがありました。温水器にマグネットで取り付けられたタイマーで、葉っぱが留められていました。
わたしは驚き、近くにいた同僚に、
この葉っぱ…、と話しかけました。
同僚は、
ああ、それ、○○さんがきれいだな、って言って、そこに留めたんですよ、と言いました。
わたしは驚きとともに深い喜びを感じました。嬉しかったです。
なぜだかとても、嬉しかったです。
不思議に思います。なぜ、他人もわたしと同じような感情を抱いたということに、喜びを感じているのでしょうか。
たった一枚の葉っぱを捨てるには惜しいと思う気持ちを自分以外の誰かと共有した。それだけのことを人は嬉しく思います。
わたしにはなぜかはわかりません。ですが、人の愛おしさにはっとしました。

人は、愚かです。人は、自分勝手です。人は、破壊をもたらします。
ですが、人は、正しくあろうとすることができます。人は、心に寄り添うことができます。人は、生み出すことができます。
悲しみや苦しみの方が色濃いせいで、全てが塗りつぶされてしまう気持ちになってしまうけれど、一枚の葉っぱが繋いだ喜びのように、透明できれいなものを思い出せるように、書き記します。
暗闇の中にいる人や、いつかの自分のために。
――――2022.10.30

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