愛ゆえに人類滅亡を望む

なんて大仰なタイトル。
だが、人類滅亡を望むことがままある。

たとえば、朝のテレビ。
日々のニュースをみるとうんざりする。
ありとあらゆるところで差別と暴力があり、国を背負う立場のはずの人たちが厚顔無恥の見本となっている。
そんな人たちを見て、人類なんて滅んでしまえと呪詛を唱えるわたしは、心から人類を愛しているのだ。

人が好きだ。考える、感じるこころを持ち、個体によって全然違うところが最高に面白い。芸術品の美しさは人の生み出したものなのだ。
そもそもわたしは人間なのだから、人間を愛さざるを得ない。
しかし、そんな愛ゆえに醜い姿をみたくなく、人類が本当に禍々しい存在であるならば(それが一部分であっても)滅亡を願う、というわけだ。

もちろん、人間には多面性があり、良い部分も悪い部分も持っているのが普通で、弱いところがあるのが愛おしいのだが、残酷な部分をまざまざと見せつけられると、よし、滅亡しよう、と思ってしまう。
善良な人間がわりを食い、凶悪な人間が甘い蜜を吸って、人類が栄えていくというならば、そんな生物は途絶えた方がよい。

全くわたしは0か100かでしか物事を考えられない、狭量な人間であることは自覚している。
でも、人類を愛しているがゆえの許しがたいことは、生きている限り増え続け、わたしの許容を超えた結果、人類滅亡を願うはめになるのだ。

きっと悲しみや苦しみを直視することがつらいので、思考を停止してしまっているのだということも自覚している。本当は、ひとつひとつの問題に向き合って、解決していくべきなんだろう。
しかし、解決への道はあまりに困難で、問題はあまりに山積みなので、手っ取り早くすべてを解決するには、人類滅亡しかないんだ。

なんて短絡思考。
これでは無差別殺人の犯人と思考回路が一緒ではないか。

むかしは苦しい、憎い、といったことがあっても、それでも愛すべき存在であったはずなのに、今はもう、滅んじゃおうぜ、と思う。
わたしたち人類が絶滅に追いやったすべての生き物たちと同様に、わたしたちも滅ぶべきときがきたのだ。
絶滅してしまった生き物たちの切なさは美しさを内包している。
わたしたちもせめて、罪を背負い、美しく最期のときを迎えようじゃあありませんか。

そのときはわたしも一緒だから。












これだけ、諦めと絶望の中にいてなお、わたしは生きていてえらい。

そして、それでもなお、と前を向き続ける先達たちに敬意を払わずにはいられない。あなたがたの姿に心を動かされた過去があるから、わたしは生きていられるのかもしれない。

「人類滅亡賛歌」

生産性のない命には価値がないと断ずるのがこの世ならば、そんな世界に生きていたくない。人類なんて滅亡すればいいんだ。

外見が醜ければ幸せを得られないならば、そんな世界には生きられない。人類なんて滅べばいい。

自分の保身しか考えていない政治家を選んだのはわたしたちだと言うのならば、民主主義なんてくそくらえ。人類はこのままでは願わずとも滅ぶ。

今が良ければそれで良いと、快適さと便利さを追求して、全ての厄介ごとを後世に託す多くの普通の人たちが、なんにも考えていないことを憎む。これまた、人類は願わずとも滅ぶ。

戦争が残した傷跡は、政治的な問題にすり替えられ、史実は虚言と交じり合う。せめて残された人に、心安らかに故人を忍ばせてあげて欲しい。それさえもできないならば、人類など滅べ。

人の心を救うはずの宗教さえ、争いの種となり、人の心を傷つけるのならば、希望はどこにあるのか。


希望はどこにありますか。

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