先住民の宝

大好きな国立民族学博物館、みんぱくの、春に予定されていた特別展が新型コロナウイルスの影響で延期になっていたのだが、結局12月15日の最終日に滑り込みでみることができた。

いやもう単純に、面白かった!
さまざまな地域の「先住民」と呼ばれる人たちの宝が展示されているのだが、簡潔なわかりやすい文章と、たくさんのもの、もの、もの。
見てるだけで楽しい。
知らなかったことを知るのって楽しい。
世界にはたくさんの民族がいて、たくさんの文化があり、考え方も違い、暮らしている環境も違うのに、同じようなところもあるということが面白い。
文化人類学の原点に立ち返るような展示で、先住民たちの宝を守り、つないでいきたいなあ。失いたくないなあと思う。

展示は1階が放射状に8つに区切られており、それぞれのスペースが地域によって分けられている。

まず、オーストラリアの先住民、アボリジニだ。
アボリジニの宝は、樹皮画などに描かれる精神世界。ドリーミングなど、世界の捉え方そのものを宝として展示してあった。
今のわたしたちとは考え方がかけ離れていて、解説を読まないとわたしには意味がわからない絵は、まさに宝。わからないものこそ、大事にしたいと思う。

次に、オラン・アスリ。オラン・アスリは、マレーシアの先住民だ。森にすむ彼らは、精霊を感じ、木彫りを作った。ちらしにも使われている精霊の木彫りは、思っていたよりも小さく、可愛かった。特につむじ風の精霊が小さくて、竜巻みたいにねじれたからだをしていて可愛かった。

台湾からはタオという民族。海洋民族である彼らの、「マヌガオイ」という船を新しく作ったときの儀礼は勇壮で、映像からでもエネルギーを感じた。
ニュージーランドのハカみたいだった。

アーディバーシーはネパールの先住民の総称だ。
民族運動についての展示のなかで、多民族国家の少数派として生きる大変さはもちろんあるが、むしろ自分のルーツへの誇りを強く感じた。

中南米のマヤの宝物は、ウイピルという貫頭衣だ。ひとくくりにマヤと言っても、高地であったりジャングルであったりと暮らしている環境も違い、それゆえに柄にも違いがあって、眺めているだけで楽しい。
だが、その民族にとって大切な模様が剽窃され、ファストファッションとして販売されているのだという。
展示をみたわたしは問いかけられた。この現状を、あなたはどう思いますか?と。

アフリカからはサンとソマリの2つの民族だ。
2つの民族の、狩猟や、シャーマニズム、らくだの牧畜などの生活文化を知った。環境が違えば、考え方が違うのは当たり前だと実感する中で、ソマリの海賊行為についてのパネルがあった。
ソマリア沖の海賊は、ソマリア北部の村人が海賊行為をおこなっているらしい。そして、それは自分たちの領域への権利の主張であるのだ。
決して海賊行為を容認しているわけではない。殺害などもってのほかだ。
ただ、相手の理屈を知らずに、恐れ、怒るだけでは、なんの解決にもならないことだけは確かだ。

北アメリカ大陸の北西海岸先住民は、ハイダ、クワクワカワクゥ、海岸セイリッシュなど複数の民族集団だ。
どの民族のかは忘れてしまったが、展示場で子守歌が聞くことができ、心が和んだ。人が子を育む心は、どの民族もきっと同じだ。

北欧からはサーミ。トナカイを牧畜しており、寒い地域で暮らす彼らの生活を感じた。
生活に密着しているナイフが精神的にも大事な象徴で、堅信式という成人のお祝いの場でもらうナイフは生涯使い続けるという。柄や鞘は、トナカイの角や皮、白樺といった、土地柄を示す材料で作られている。

そして、2階が日本の先住民として、アイヌ。
人気漫画ゴールデンカムイとのコラボ!!!
デジタル原画とその漫画のページに出てくるアイヌの生活具の実物が展示されている。
ゴールデンカムイも好きなので、かなりテンションがあがった。
耳長お化け(キサㇻリ)とかもあったからね。

そして、最後に、研究者への質問というコーナーがあり、ここでは今まで「先住民の宝」の展示をみて、疑問に思った点などを各民族の研究者に質問ができる。紙に質問を書いて、ボックスに入れるのだが、過去に質問をした人への回答が、壁に貼りだされていた。
小さな子から大人まで参加していて、それに答える研究者の言葉も面白くみた。

その中で、驚く質問があった。
その質問には、「アイヌは日本の先住民ではない」と書かれていた。
それに対して、研究者は丁寧にアイヌが先住民であるということを説明していたが、信じられなかった。ここにまで、歴史を軽んじる人たちが来たのかと。
みんぱくの展示をみに来る人なんて、歴史や文化が好きな人たちなのではないのか。
間違った歴史を信じ込んだ人が、ネットの住民としてではなく、現実に研究者への質問として、「アイヌは日本の先住民ではない」と書いたという事実を突きつけられて、戸惑いと悲しみを感じざるを得なかった。

とはいえ、みんぱくがこの研究者への質問に、きちんと対応し、人の目に触れるように貼り出していたということの意義は大きい。
研究者が、このような間違った認識を正さなければ、正しさの砦にならなければ、研究者としての意義すら失う。なんのための学問なのかと。

展示をただただ楽しくみていたが、それではいけないようだ。
わたしは、先住民の宝は、守っていかなければならないものだと思っている。それが当たり前のことだと。
しかし、そう思わない人がいるどころか、「先住民」であることから否定する人もいる。
前提が違う人たちと会話するのは、労力がいる大変なことであるが、きっとお互いが自分のエネルギーを削ってでも、分かり合おうとしていくことが、世界を変える一歩になるのだろう。

想像するだけでしんどいけれど、頑張って向き合っていきたい。
そして、向き合う力をくれるのは、まさしく「宝」たちなのだ。

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