風と木の詩

1月7日、竹宮惠子さんの京都精華大学の学長としての最終講義を聞きに行ってきた。
タイトルは、「扉はひらく いくたびも」。
行く前も素敵な言葉だと思っていたけれども、講義を受けた後に振り返ると受け取るメッセージが深化していて、講演内容ももちろんのこと、漫画家として言葉の選び方が優れていることに感心した。さすが竹宮先生。

そんな講演会の感想を自分のノートにしたためていたら、感情が爆発して、やっぱり「風と木の詩」は傑作だったなと興奮してきた。
中でも、わたしの心に刻みつけられている言葉がある。

"罪を犯すまいとして、真実を見誤るな"

セルジュの父、アスランの言葉だ。
これがすべてを物語っている。
真実の愛のために、全てを捨て、罪さえも犯して生きていく。

アスランは子爵の地位を捨て、高級娼婦だったパイヴァと生きた。
アスランはすべてを捨て、多大な犠牲を払ったようにみえる。
だが、彼自身はそんな風に思っていなかった。
むしろ自分が、パイヴァに大きな犠牲を払わせたのだと思っていた。

"人を愛するということは自分が犠牲を払うのではない
相手に払わせるということだ
そしてそれが自分にとっても手痛いということなのだ"

結核にかかり音楽への道を断たれたアスランが見出した生きる希望が、パイヴァであり、息子のセルジュだった。
アスランにとっても、平穏な子爵としての日々より、愛する者の存在が生きるために必要なことだったのだろう。
そして、そのために周りの大切な人たちを傷つけることになっても、彼女と生きることを選んだ。
いくら幸せになっても、その幸せは周りの犠牲が礎となっているのだということを自覚してなお。

愛を至上のものとして、自分の正しいと信じる道を行くとは、なんと高潔な生き方か。周りに犠牲を払わせる苦しみを抱えて、それでも幸せに生きていく努力をする。
そんなアスランの高潔さは、息子のセルジュへ受け継がれる。
彼もまた、自分の正しいと信じた道を行く。
たとえそれが破滅への道でも。

ジルベールと出会い、彼に惹かれるセルジュ。
彼と心を通わせるために、罪を犯してでも同じ目線に立とうとする。
これは生半可なことではない。
わたしは愛する人が肌の触れ合いを求めたとして、応えることができるだろうか。それしか救う手段がないとして、相手に欲望を感じないまま、自分を差し出すことができるだろうか。
自分を犠牲にすることは、自傷行為ともとれる。

わたしは「風と木の詩」を文庫版で所有しているのだが、表紙を見るたび、胸が締め付けられる。
ジルベールが平然とした表情でこちらを見つめているのに対し、セルジュは微笑みながら涙を流している。
ジルベールと共に生きることは、セルジュにとってどんな意味を持つのか。
苦しかったろう。悲しかったろう。
でも一方で、救われていたはずだ。
純粋無垢なジルベールに。
生きる価値そのものであったはずだ。

罪を犯してでも真実を求めるアスランやセルジュに憧れ、応援してしまうのは、間違いかもしれない。
なによりも真実を求めることはたとえば、不倫を容認することや、犯罪の手助けにもつながる考え方ではないか。その考え方を正しいと信ずるのは、いかがなものか。
わたしは現実に、もし友人が不倫をした場合、友人のことを責めないだろう。また、友人が助けを求めてきたら、犯罪者であろうとかくまうことを選ぶだろう。
わたしにとっての真実は、罪を容認することよりも、友人が大切な存在であることだからだ。
それは全くはっきりしている。
ただ、自分が不倫をするか、犯罪を行うか、と言われれば、自信がない。
罪を犯すことを恐れているからだ。
真実への道を行きたくても、それがだれかを傷つけ、裏切る行為だとして、勇気をもって立ち向かえるのか。
…それはそのときになってみないとわからない。
ただ、アスランの言葉だけは忘れないでおこうと思う。

"罪を犯すまいとして、真実を見誤るな"


※1月26日追記
竹宮さんの自伝的著作「少年の名はジルベール」が最終講演の内容に近い部分がある。
やっぱり文才もあるんだなぁと敬意を抱きつつ、同じ時代を生きていることに感謝した。

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