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「昭和きもの」とは何か

一般社団法人昭和きもの愛好会設立にあたり、私共の団体が価値を認め、保存しようとしている「昭和きもの」とは何かについて、ご説明をさせていただこうと思います。

まず、その保存対象となる「昭和きもの」とは何でしょうか。
それは主に太平洋戦争終結後、主に昭和30年代から60年代までに生産された着物を指します。一般的な理解では、昭和着物=昭和期全般に作られた着物、となりますが、昭和きもの愛好会では同じ昭和でも戦争をまたいだ後半に着目し、この時期の着物を研究し、蒐集しています。
まだこの時代の着物に価値を見出す人は少なく、昭和時代の着物と聞くとどうしても昭和初期のいわゆる「アンティーク着物」を想起されるようです。
昭和初期 (1925年から1940年頃まで)の着物も、明治・大正の延長で美しいデザインが見られますが、昭和30年以降の着物はその色・デザイン・素材において一時代を画すもので、日本の着物史上特筆すべきものであると思われます。

太平洋戦争集結以降の着物には、まだ十分な評価と位置づけができていないのが現状です。そのあたりも私共昭和きもの愛好会の課題と使命であると考えております。さて、戦前からのの歴史を踏まえ、この「昭和きもの」の像をより明確にしてゆきたいと思います。

Ⅰ 戦後の着物ブームと着物の量産時代
太平洋戦争前の昭和15年に発布された「奢侈品等製造販売制限規則(通称七・七禁令)は着物の製造に制約を設けました。加えて戦時中は物資の不足や職人の不在で、着物の製造には冬の時代が続きました。
こうした不遇の時代を経て着物をもう一度表舞台に押し上げたのは、終戦後の好景気です。また戦争中は知ることのできなかった海外のファッションデザインも一気に入ってきました。こうして昭和30年以降斬新な絵柄が続々と作られるようになりました。この時代の特色を更に詳しく説明します。

昭和30年以降の着物の特色(戦前と比較して)
1 織の着物生産量の増加
染めや手織りから機械織へ。ジャカードお召などの生産で特筆すべきは、新潟県十日町市の着物づくりです。東京という大消費地を背景に、工場での大量生産が行われました。それまでの受注生産と比較して、着物の種類と生産量が一気に飛躍しました。

2 デザインの変化
海外のデザインに影響をうけ、着物に幾何模様や空想上の花模様を取り入れることが行われました。色もグレー・サーモンピンク・レモンイエローなど、いわゆる「和の色」を離れ、従来使用されなかった色の使用が見られるようになりました。

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昭和30年代生産の銘仙着物(松下幸子氏所蔵)

3 素材の変化
大量生産に耐えるものとして、より強い素材が求められました。
また、金銀糸を多用する織物の製造(ジャカードお召・マジョリカお召)もこの時代の特徴的な生産物です。


Ⅱ 消費者ニーズの変化
生産は消費者の動向をそのまま反映するものです。まだ専業主婦の多かった時代とはいえ、職業につく女性の数が増え、社交の機会も増えました。住環境も当時の婦人雑誌を見ると、洋風建築への強い憧れが見られます。当時の着物はこのようなニーズに合わせて製造が進みました。その特色は

1 丈夫で扱いやすい素材を好む(お召素材など)
  機械による織主体の製造が、強い糸を必要としました。

2 受注による絵羽ものからつけ下げへ、総柄の反物へ
  着物作りは大量に生産し、大量に販売する方向へ向かいました。一つのデザインを大量生産する方向は戦前も普段着の銘仙などにみられましたが、一層その傾向が強まりました。

3 社交の場に合う着物と小物の生産
 この時代を代表する着物として、「ジャカードお召」「マジョリカお召」があります。
 ジャカードお召はフランスのジャカールが発明したジャカール織機からつけられた織物の名称です。華やかな模様や、金銀糸の入った織模様を自由に作ることができ、晴れ着として人気を博しまた。
 マジョリカお召は19 4 0年から4年ほどの間に製造された織物です。主に十日町で織られました。狭義には着物の地色がマジョリカ陶器のような肌色で、その上に釉薬を模したオレンジや緑で模様を織り出しているものを指します。

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  マジョリカお召(昭和きもの愛好会所蔵)

Ⅲ 販売方法の変化
十日町は東京という大消費地に近い利点を生かし、早くから京都とは異なる販売戦略をとってきました。
生産量としては新潟県や群馬県に押されていた京都の着物ですが、京都も意匠制作者・悉皆屋・職人が一体となって衣服の美を追求していました。早期に分業制が確立していたこともそれを可能としました。特に京都の意匠制作は他府県に販売できるだけの層の厚さがありました。
また昭和50年代に入ってからの紬ブーム・民芸ブームで他の産地も活気づきました。当時の着物製造者・販売者の取った作戦はこのようなものです。

1 マスコミや雑誌主導の販売戦略(十日町などの産地がいち早く取った戦略です)
2 女優やタレントを使った宣伝
3 デパート中心の販売
特に3は、大手デパートのなかに呉服商から発展したものが多く、販売会・展示会の開催は積極的に行われました。
他の産地も程度の差こそあれ、この販売形式を追いかけました。

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十日町織物の雑誌広告

こうした時代を背景に、「まさに空前」と言われる着物ブームが到来したのです。
昭和きものには、この大量生産を背景としたデザイン・色に加え、販売方法にも経済史として見るべきものがあるのです。
昭和きもの愛好会では、これらの着物を研究・蒐集しながら、60年続いた昭和という貴重な時代の意味を検証して行きたいと考えております。

(昭和きもの愛好会理事 似内惠子)

https://showakimono.jimdofree.com/ 昭和きもの愛好会HP
https://www.facebook.com/showakimono/ 昭和きもの愛好会FB

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