小説 フルマラソンはじめました
駿はスタート地点に立って、物思いに耽る。11月の淀川河川敷は肌寒く、半袖で走るには厳しいコンディションのように思われた。しかし、走れば暖かくなるだろうと思っていた。またそれ以上に気合を入れる為に、敢えて半袖、短パン姿でレースに臨んだ。彼は普段、体育会系にありがちな精神論を心底軽蔑していた。ところが、いざ初のフルマラソンを迎えると、掌を返すかの如く、根性に依存している。
周りを見渡すと、友だち同士でこの大会にエントリーしたランナーも割と多くいるようで、駿の背後にいる二人組も
「今日は寒いな、カイロを持ってくれば良かった」
「この時計、この前買ったばっかで、今日がデビューやねん」
などと話している。
中には、大阪らしく阪神タイガースのユニホームを着ていたり、虎の着ぐるみに身を包んでいたりする者もいる。一方、駿は家を出てからスタート地点に至るまでひとりぼっちだ。それでも、彼は寂しさを感じることはない。初めてマラソンに誘ってくれた職場の先輩のことを考えると心強く、まるで常に側にいてくれるように思えた。
しばらくの間、狭いスペースの合間を縫って軽いストレッチをしていると、スタートまでのカウントダウンが始まった。スタート3分前だと言う。これまで、大会の距離で言うとハーフマラソンが最長である。練習でも25キロ走ったのが一番の距離だ。だがこの時の駿は興奮が優っていて、不安など感じる隙は無かった。スタート1分前になると、より前の方にぎゅうぎゅう詰めになるまで押され、
「これがフルマラソンのスタート前か」
と駿のボルテージは上がる一方だ。
◇
いよいよ号砲が鳴った。しかし、すぐには走り出せない。後方にいる駿はかなり時間が経ってからのスタートということになる。前方のランナーが次々と走り出していく中で、まだスタート前で足踏みしている駿。すぐにでも走り出したい気持ちで一杯だ。薄曇りの空の下、3分くらい待ってようやく前に向けて歩き出した。さらに、スタートゲートを通過したのは号砲から5分近く経ってからのことだった。
あらかじめ入念にストレッチをしていたにも関わらず、スタート前の待機によって体がカチカチになってしまった。だが、少しずつ走っていくうちに筋肉の緊張や強張りが取れていくのを感じ取った。そのせいか、コースとなる淀川の河川敷で応援している人たちに向けて手を振る余裕も見せた。
鳥飼大橋の下をくぐると河川敷のグラウンドで野球やサッカーの練習に汗を流す少年少女たちを見かけた。駿はスポーツで繋がっている感覚を勝手に抱いて、声にはならないけども、心の中で彼らにエールを送った。
6キロ地点に到達すると、最初の給水地点が現れた。テーブルの上には水やスポーツドリンクが置かれている。しかし、駿は給水する時間がもったいないと思ったのか、そのまま通過してしまった。
「給水はまだ大丈夫、それよりも少しでも早く前にいきたい」
そのような思いで走っていく。
体が軽く、どこまでも走っていけるような気がして、駿はギアを一段階上げて、次々と前のランナーを抜いていく。
淀川の河川敷を上流の方、つまり京都方面に向かって走っていく。淀川新橋を抜けると川にかかる橋はなくなり、遠くの景色が見渡せる。そんな中、遠くに観覧車が見えた。
「この辺りの遊園地だと、きっとひらかたパークに違いない」
などと思いながら、種はさらに力を入れて走っていく。2か所あるうちの最初の折り返し地点を回ると、今度は下流の方へと走っていく。折り返してすぐに、12キロの給水所が見えてきた。今度は喉の渇きを潤すため、スポーツドリンクを取った。給水所にいるボランティアに「ありがとう」と言い、ゆっくり歩きながらドリンクを飲み込む。美味く感じた。
◇
15キロを過ぎ、20キロを超えていくうちに、駿は徐々にスピードが出なくなってきているのを感じ始めていた。それでも、まだ体は動くと信じ、そのままのスピードで走り続けた。
やはり最初から無理をしていたからなのか、24キロを通過した頃から太腿が痛くなってきた。駿は痛みに耐えて走れるところまで走ろうと決めた。
しかし、それから1キロ経つか経たないかくらいで、走る気力を失う程に脚全体が痛みを帯びてきた。さっきの決心はどこへやら、歩き始める駿。情けないと思いつつも、前へ進むには歩くしか選択肢がなかった。
毛馬閘門を越え、阪急電車の線路の下をくぐるとエイドステーションが見えてきた。そこまでの間、脚を伸ばしたり、立ち止まったりしながら少しずつ進んでいた駿には、オアシスのように思えた。
エイドはテントの中にあり、整体師の先生が体をほぐして、ランナーを送り出していた。駿も真っすぐにそこへ入っていった。椅子があり、そこに座ると脚の曲げ伸ばしをされ、痛みを軽減させるテーピングを貼ってもらった。
背中を押されて、レースに戻った駿は少しだけでも走ろうと足を前に運んでみた。しかし、痛みは治らず、走ろうとする駿の脚を止める。それでも走ったり、歩いたり、止まってストレッチしたりしながらゴールを目指すことに変わりはない。
鉄橋の下を次々とくぐり、もう1か所の折り返し地点で折り返す。前へと少しずつ進んでいく間に、100人いや150人くらいに抜かれただろう。でも、そんなことは関係なかった。1キロずつに置いてあるキロポストを目標にして、足を動かす。
駿の頭にはマラソンに誘ってくれた先輩のことが思い浮かんでいた。フルマラソン前日も先輩にメールした。
「不安です」
とただ一言だけ。返信はなかなかの文章だった。
「大丈夫、失うものはないのだから、思い切ってやりなさい」
思い出して、駿は泣きたくなった。いや、涙はゴール後に取っておこう。駿はさらに前に進もうと意地で足を動かす。
そうしていると、42キロポストまで到達した。ところが、そこでとうとう足が止まってしまう。いよいよリタイアという言葉が頭をよぎった。その時だった。今まで聞こえなかった沿道からの声援が聞こえてきた。
「がんばれ、あと少しだ」
不思議と、駿が今まで聞こえなかった、いや耳を傾けてこなかなった声援だった。
「みっともない姿は見せられない」
駿は小さく呟いた。走る力が漲るようだった。残り195メートルを全力で駆け抜け、その勢いのままゴールゲートをくぐった。
◇
記録は5時間をオーバーしてしまった。悔しいと思いもした。だが、ゴールしたら全ての感情が溶け合い、充実感のみが残った。
駿は安堵し、それと同時に自身の走りを反省した。最初に飛ばし過ぎて後半バテてしまい、失速したというのが彼の分析だった。もっと記録を縮めたい、だから再びフルに挑戦する。彼の中の気持ちは固まっていた。
駿は立派なランナーだ。
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