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小説 ムジカ~不毛な時間①

 天を仰ぎ見ると、雲一つない青空が広がっていた。私の胸の内を全く反映していない天気に、思わず笑ってしまいそうになる。
「また、散らかった家に帰るのか……」
 そう呟くと、心に掛かった雲がどんどん分厚くなっていく。近所の薬局で処方してもらった薬を持って、川べりの堤防道路までやってきたときには軽く汗をかいていた。流れる汗をぬぐいながら、私はあの日のことを思い返していた。忌むべき日であるのだが。


 私が住む東京郊外のベッドタウンはすっかり日が暮れて、街灯がなければ辺りは真っ暗になるところであった。
「今夜は月も出てないのか、この先の人生みたいな暗さだな」
 私はそう皮肉っぽく言って、己のことを呪った。その途端に風が強くなり、寒さがより一層増したように感じられた。電車内の暖房が効き過ぎていたので、コートの一番上のボタンを外していたのだ。慌ててボタンを留めると、早く家に帰ろうと一瞬、早足になる。しかし、その足はすぐに止まった。
「どうやって、この明らかな左遷人事を妻に伝えようか」
ボソッと呟くと、溜め息が出た。どこかで一杯飲んでから帰ろうかとも考えたが、何も連絡していないのに、酔って帰ってきたら何と言われるかと考えると、選択肢からは外れていった。様々な選択肢が浮かんでは消えていき、気が付くと家の目前まで来ていた。
「正直に言うしかないな。後は野となれ山となれだ」
玄関の門をくぐり、ドアを開けた。

「ただいま」
「お帰りなさい」
 すぐ美穂子から返事があった。最近、仕事でのミスを繰り返し、それを一回一回報告しては彼女が不機嫌になった。そして、私がそれに噛み付いて喧嘩になる、それが私たち夫婦の最近のパターンだった。美穂子は
「早かったわね」
とすぐにチクリと刺すように次の言葉を加える。心の中で「どう言う意味だよ」と喧嘩腰のフレーズを唱えてはみたが、口外することはしなかった。実を言うと、私は喧嘩や争い事が大の苦手なのだ。今まで、相手が気分を害しそうになると、譲ったり相手の機嫌を伺ったりしてきた。しかし、今回ばかりは話さない訳にはいかない。いつかは分かってしまうことなのだ。
「話したいことがあるんだけど」
「嫌だ」
「嫌だ、じゃない。大事な話なんだ」
「聞きたくない」
「じゃあ、独り言みたいに話すよ。君は耳を塞げばいい」
そう返すのが精一杯だった。この展開はまた喧嘩になる。そんな予感に満ちていた。

「実は、三月から異動になりそうなんだ。喜んでくれ、次の部署はほとんど残業のないところなんだ」
何とか残業がないことをアピールし、取り繕おうとするが、
「異動って、何で時期外れに異動になるの?」
猜疑心に満ちた目で私を見る美穂子の前では通用しない。そして私は腹をくくって続けた。
「それが・・・仕事でミスしちゃって、損失を出してしまったんだ」
その後のことは、予想していた通りだった。美穂子は激昂し、馬鹿だの、無能だのと暴言を吐き散らした。こうなってしまうと、私の手には負えなくなってしまう。クッションなどそこら辺にあるものが美穂子から私の方へ投げつけられた。興奮が収まると、今度は二階へと階段を昇り、物置部屋からキャリーバッグを取り出した。
「何してるんだよ。おい、何考えてるんだよ」
 答えは明白なのだが、口にはしたくなかった。言ってしまえば、本当に自分が思っている通りになりそうな気がしたからだ。私にはそういう、肝心なところで物事の本質から目を逸らす癖がある。
「実家へ帰る支度をしてるのよ。邪魔しないで」
「何で帰るんだよ。今までも話し合って解決してきたじゃないか」
「もうこれ以上話すことなんてない」
一蹴された。
「この家のローンはどうなるの?子どもだってまだ出来てないのに、あなたは何がしたいの?このままじゃ不妊治療もできないし、実家からは『子どもはまだか?』と圧力かけられてるし、私の身にもなってよ」
 そう吐き捨てると、当面の荷物を詰め込んだキャリーバッグを引いて、家を飛び出していった。そして、ガレージに停めてある車に乗り込み、家を出ていってしまった。その時の私は、情けないことに制止することすらできず、ただ二階の物置部屋に立ち尽くすばかりであった。我に帰り、美穂子の携帯に何度も電話をかけ、メールもしつこいくらいに送った。できることといえば、そのくらいだった。己の無力さをここまで嘆いたことはない。その日のうちに返事は来なかった。

 片付ける気力も、着替えるだけの力もなく、ソファに横になっているうちに、眠ってしまった。太陽が昇り始めた頃だろうか。寝ぼけ眼で今日は何曜日かとカレンダーを見てみる。土曜日だった。週末で良かったと心底思った。平日だったら、仕事も手につかず、最悪の場合、何か理由を付けて休むところだっただろう。週末だと分かった途端、全身から力が抜けて、ソファに吸い込まれるように再び眠りに就いた。

つづく

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