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「普通」になろうということが間違っていた



心配を受け取らないバリア


今朝は母が金銭面の心配をしてきた。
以前の自分だったらもっと抱え込んだだろうな。
まったく深刻にとらえなかった。
自分の周りに薄い鉄板が巻かれているような感覚だった。

本当は、心配してほしくない。心配かけたくない。
自分を責めようと思ったら、いくらでも責めることができる。
無職だし、働けないし、結婚もしてないし、などなど。
でも、無理なものは無理だし、
ハローワークやサポステに行ってゆっくり歩を進めているのだから、それでいい。
焦らない。塞ぎこまない。左右されない。

他人は他人。
心配したいなら勝手に心配したらいい。

ただ、助けようとしてくれる気持ちはありがたいなと思った。
ありがたいところだけ受け取る。

母に仕事を探す話をすると、
「資格を取ったら?」と言われるので、深く話したくない。
そこが引っかかって、心のすべてを正直に話すことができないのである。


社会不適合者はいない

「社会不適合」だと自分のことを思っていた。
「社会」に「不適合」な自分。
なんとか適合しなければならないと頑張った。

だけど、本当は
「社会」が「不適合」なだけ。
それ以外の場所または別の社会で適合できる。


「普通」にならなくていい

「社会不適合者はいない」を深掘り。
最近までの私の考えを図で表すとこうだった。

「普通」を見上げる自分

「普通」の人が上にいて、自分は最下層。
「普通」にならないといけない、
努力して上がっていかないといけない!と、
もがいていた。

でも、きっと本当は、下図のような感じじゃないかと思う。

「普通」の周りを漂う自分たち

自分の能力が低く、他の人が高いというわけではない。
上下・優劣はない。
「普通」の人も、そうでない人もいる。
グループが違う。

※この「普通」という表現が正しいのかは、わからない。
平均的で面白みがないと捉えれば、差別的になるだろう。
そういう意味ではなく、私の感覚としてこんなイメージというだけ。


自分にも適合する場所がある

「普通」の人が適合するエリアがある。
自分は自分の適合するエリア(上図の水色部分)がある。
それも狭い範囲ではなく、「普通」の人と同じぐらいエリアは広い(はず)。
「普通」になろうということが間違っていた。

よく花で例えられる。
バラは、ひまわりにはなれない。
ひまわりは、バラになれない。
どちらも良さがある。

そして、普通ではないと思っている自分も、
他人から見ると、わりと普通なんだと思う。
だから結局、こうだ。

私もあなたもみんな「普通」!

つまり、自分が思っている「普通」(黄緑エリア)にはなれないということかも。
自分は自分の生きやすい世界にいなければ、息苦しい。
生きやすい世界を探す。

朝からずっとこれらの図が浮かんでいたので、ペイントで描いてみた。
パソコンが普及し始めの頃のホームページのイラストみたいで懐かしい。

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