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東京の「空の玄関口」と言われる「東京国際空港」(通称 : 羽田空港)。今も着々と拡張・発展を続けている、この巨大空港の敷地内には、なぜか奇妙な鳥居が存在しています。近くにお宮はまったく見当たらず、唐突に敷地内に立つ不思議な鳥居。地元の方の中には「呪いの鳥居」と呼ぶ方もいます。

羽田空港の場所にあった「穴守稲荷神社」

羽田空港は、90年前の夏、1931年の8月25日に正式に開港しました。
今でこそ世界第4位、国内最大の旅客数を誇る羽田空港ですが、その歴史を紐解くと、実に興味深いエピソードがあります。

羽田は、江戸中期に埋め立てられ、新田開拓が行われてきた場所です。塩害や水害に悩まされ続けましたが、やがてこれらの被害から開拓地を守ってもらいたいと、伊勢神宮から外宮の神様・豊受姫命(とようけびめのみこと)を勧請して、神社が建立されることとなりました。
それが現在に続く「穴守稲荷神社」です。

「堤防に空く穴がもたらす害から土地を守る」という意味を持つ名でしたが、江戸時代、性病に苦しんでいた遊女たちから、自分たちの体を守るご利益があるとして、たいへん手厚い信仰を集めることにもなりました。

明治時代になると、羽田に温泉が湧き、潮干狩りなども楽しめるようになったため、行楽地としても発展していきます。
穴守稲荷神社の門前町の賑わいを見て、京浜電気鉄道(現 : 京浜急行電鉄)が蒲田からの支線の運用を始めたほどでした。

羽田空港を接収したGHQが断念した、鳥居の撤去

第2次世界大戦が終結し、敗戦直後の1945年9月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、軍事基地拡張のために羽田空港を接収(いわば強制的没収ですね)、同時に羽田一帯の土地も軍用地としました。

穴守稲荷神社と羽田地区の住民たちには、たった24時間の撤収時間しか猶予を与えられず、ほとんど着の身着のままで荷車を引き、家を後にしたのだそうです。

このときの一連の接収で、穴守稲荷神社の社殿や鳥居なども撤去されましたが、門前に建った「赤鳥居」だけは撤去することができませんでした。
なぜなら、次々と異変が発生したからです。
最初はロープで引き倒そうとしたそうですが、なぜかロープが突然切れて作業員が重傷を負います。
作業員が鳥居の上に立って作業をしていたら、突風が吹いて転落する、工事責任者が突然病死してしまう、などなど異変が続いたことから、「穴守さまのたたり」という噂が流れ、さしものGHQもとうとう撤去を断念してしまいます。

その後は、半世紀も移転できずじまいに…

結局、1952年にGHQから空港が返還された後も、この鳥居は1999年までの半世紀近くにわたり、羽田空港駐車場の真ん中という、考えられない場所に立ち続けました。
羽田空港は、かねてより空港全体としての開発が急務となっており、そんななかで、空港駐車場の真ん中にそびえる鳥居は、移転の必要に迫られていました。

時代の、社会の要請もあって、氏子の方たちによる丁重な祈願の後、ようやく何事もなく現在の場所に移されました。「撤去」ではなく「移転」という形をとったわけですが、その現在地も羽田空港の敷地の中にあることに変わりはなく、穴守稲荷神社と関係があるような位置関係ではまったくありません。
何も知らずにこの地を訪れた方は、「いったいお宮はどこにあるの?」と思われるでしょう。鳥居の向こう側には、飛行機の離着陸場が見えるだけですので…。

この鳥居の移転が完了してから、羽田空港は飛躍的に発展しました。2004年に第2旅客ターミナルビルが、2010年には国際線旅客ターミナルビルの運用も始まっています。

もともと鳥居に呪いなどあるはずもなく、「自ら開拓した土地を理不尽に奪い取られた羽田の人びとの意地が、鳥居の移転を阻んでいただけ」と言う方もいらっしゃいます。しかし、半世紀が経ち、成田空港の状況を見て、羽田の人びとが「空港の発展もやはり大事」という考えに変わっていったのだろうと…。

羽田は比較的新しい土地です。こうした新しい土地にも、知られざる歴史があるわけですね。

最後に、焼け野原に佇む鳥居について

下の写真は、広島への原爆投下後の焼け野原に佇む鳥居を写したものです。
大規模な空襲を受け、焼け野原と化した街に佇む鳥居の話は、決してひとつやふたつではありません。
ある米軍の司令官は「いったいあれは何で出来てるんだ?」と、調査を命じたと言います。

鳥居とは、人智がおよぶものではないのかもしれません。

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