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有名な「巌流島の決闘」ってやつですね。
私はいま福岡に住んでますが、この巌流島は割と近くにありまして、以前、山口県下関市にある唐戸市場へ遊びに行ったとき、行こうかどうしようか迷って、結局は行かなかった場所でした。今度下関に行くときは、ぜひ行ってみたいと思ってます。
ま、それはさておき、宮本武蔵と佐々木小次郎、武蔵については、いろいろと知られていることも多く、かなりの有名人ではありますが、小次郎については、実は実在の人物だったかどうなのかすら、あまりよくわかってはいないようなのです。

宮本武蔵についても、史実と異なった創作が多いと言われています。

江戸時代初期の剣術家であり、大名家に仕えた兵法家で、芸術家としても知られた人物。かなり多才な方だったようですね。いわゆる「二刀流」と言われる、二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや、この佐々木小次郎との巌流島での決闘は有名な話ですね。

演劇、小説、漫画、映画、アニメなどなど、さまざまなコンテンツの題材になり、現代では「剣聖」と呼ばれることもある人物ですが、特に吉川英治の小説「宮本武蔵」が有名ですね。この小説の中で述べられているエピソードは、実は史実とは異なった「創作」が多いということでも知られています。

剣術だけでなく、絵画や武具・馬具づくりの達人でもあったようです。国の重要文化財に指定された絵画をはじめ、水墨画や鞍、木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されています。
島田美術館が所蔵する有名な肖像画、よく露出されているものですね、これは作者不詳とはされてますが、身体を緩めている様が著書「五輪書」の説く極意に一致していて、「自画像」とする説もあるようです。

佐々木小次郎。この人、実はわかってないことがとても多いんですね。

生まれた年や本名も、実はよくわかってません。わかってることは、吉川英治の小説「宮本武蔵」の記述の多くは、小説だけにかなり多くの部分が作者の創作ということですね。
よく知られたエピソードですが、武蔵が巌流島に遅刻して「小次郎敗れたり」と言ったとか、小次郎が「燕返し」という凄技の使い手だったというのは、大体が吉川英治の創作か誇張だったようです。

宮本武蔵の養子が記した「小倉碑文」によると、「武蔵が闘ったのは巌流だ」とする記述があり、この巌流は一説には老人であったとされています。しかし、「沼田家記」という史料では、巌流=小次郎とするものもあり、よくわかってません。ただ、佐々木という苗字は一切出てきておらず、「佐々木巌流」または「佐々木小次郎」という人物はいなかったと推測する専門家も少なくありません。佐々木小次郎という名前は、歌舞伎の演目などから広く使われるようになり、今に伝わっているという説が有力と言われています。
説はまだあり、そもそも小次郎自体が老人だったのではないか、とか、18歳の若者だった、とか、「沼田家記」もあまり信用できない史料である、とか、彼の存在は、だいぶ混戦状態にはなってます。さすがに巌流島の戦いと宮本武蔵は存在したらしいですが…(笑)。武蔵が巌流島で闘った相手は、本当は誰だったんでしょうか?


宮本武蔵がお箸で飛んでるハエを捕まえたとかいう話を子どもの頃に聞いて、実際に試したことがありまして、当然捕まえられるはずもなく、「武蔵すげー」と思った記憶があります。
あれも創作だったんでしょうね。捕まえらんねーよ(笑)。


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