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ジブリ映画「ゲド戦記」について。

人の頭が、おかしくなっている。
善と悪の境界線は崩壊し、何でもありになると、人は獣になってしまう。
情報化社会のなかで、精神を健やかに保つということさえ難しく感じてしまう。

俺の胸を打った映画、「ゲド戦記」。
今回の記事では、この映画について、少し書く。

公開は06年。
いまから18年前…。
監督は宮崎吾朗。
若い頃から、原作である「ゲド戦記」の読者だった彼が、初めてメガホンを取った作品だ。
本来は監督をやる筈ではなかったようだが、紆余曲折を経て、監督と脚本を歴任することに。

原作からは、主に3巻「さいはての島へ」と外伝を交えたオリジナルストーリーとなっている。
俺はこの映画のファンだ。
原作より、このジブリ映画のファンだ。
少し珍しいかもしれない。
原作は4巻まで読んだが、俺には合わなかった・・・あくまでも、この映画のファンなのだ。

原作は外伝含め、全6巻。残り2冊は、多分、読まない…。
俺が好きなのは、断然こっち。

この映画は、評判が悪いことで有名だ。
俺は逆にそこに興味をもって観始めたのだ。
(へぇ、あのジブリで不評なんだ・・・)
と。
なんとも不純な動機だが、観る理由なんてなんでもいい。
どちらにせよ、この作品の素晴らしさに気づけたのだから。

本作の魅力は、主人公アレンに尽きると思う。
アレンは、錯乱している少年だ。
エンラッドという王国の王子という、何不自由ない生活をしているにも関わらず、正体不明の影に取り憑かれ、父である王を刺し殺して、城を出奔する。

自分自身が分からない
という、正体不明の想いに突き動かされて、荒野を彷徨うなか、獣たちに襲われた。
当初は闘志を剥き出しにしていたアレンだが、ふと、力を抜き
(ここで死ぬのもいいか・・・)
と、諦観する。
その隙を見て、群れの中から襲いかかる一匹の獣。
その獣が、強烈な疾風で吹き飛ばされた。
一部始終を見ていた賢人、ハイタカの魔法が、彼を救ったのだ。
逃げる獣たち。
「大丈夫か」
と、声をかけるハイタカに、鋭い眼光で睨みつけるアレン。
立ち止まるハイタカ。
しかし、アレンは急に気を失い、倒れる。
「おい、しっかりしろ」
と、ハイタカはアレンを抱きかかえた。

ハイタカ(真の名はゲド)との出会いが、アレンを変えてゆく。


以上は物語の序盤。
全てのあらすじを書くのは控える。

ここからは、俺の感想。


賢人ハイタカとの出会いの中で、アレンは少しずつ自分を取り戻してゆくが、それでも己の影に怯える毎日は変わらない。
「ゲド戦記」は、原作自体がそうだが、このジブリ版でも、敵が外部だけではなく、あくまでも己の胸の内に潜んでいる、というところが特徴だ。

敵もいますけどね。

「獅子身中の虫」
という言葉がある。
百獣の王ライオンを倒すのは、外部の敵ではなく己に寄生する虫、という意味だ(主に組織や会社内などに、裏切り者がいる場合に使う言葉)。
ライオンは、その虫に蝕まれて、病で死ぬ。
アレンも、ずっと影に怯えているが、それは実はもう一人の自分であり、その影に目を背けているから、いつまでも不安が消えないまま苦しんでいるのだ。

宮崎吾郎監督は
「皆んな、出来あがった世界の中で、閉塞感に喘いでいる」
と、映画のパンフレットで語っているが、特に子どもたちにそれを感じ、
「常に監視されている世の中で、息苦しくないのかな」
と、感じるのだとか。

「ゲド戦記」映画パンフレットより。右が宮崎吾朗監督。左が主人公アレンの声優、岡田准一。

この映画は前出したように06年のもの。この頃はスマホはまだ無いが、ケータイは当たり前にあった。
この時代より、今は更に「監視社会」になったと思う。スマホさえあれば、GPS機能でその人がどこにいるかはすぐに分かるし、お店や車道も、駅中も、昔とは比べものならないくらい監視カメラが設置されている。SNSの普及で、リアルタイムで投稿すれば、その人が今、どこで何をしているのかも、すぐに分かる。

すごく便利だ。
俺もたくさんの恩恵を受けた。
だけど、その便利さ故の弊害もある。
昨日、動画サイトで、石川県野々市の13歳の女の子がイジメを苦に自殺をし、その遺族が市を提訴した、というニュースを観た。
その女の子は学校のグループLINEなどで意図的に無視されたり、仲間はずれにされてきたようだ。
被害者の女の子が、可憐な見た目をしていることもあってか、観ていて胸が傷んだ(こう書くと、見た目が悪かったら痛まない、という風に読めてしまうかもしれないが、あくまで今回の事件を見たときの、率直な気持ちです)。
別に俺はここで「LINEなどのSNSが悪い」と言うつもりはない。
悪いのはあくまでもその行為をしているバカどもであり、SNSなんて単なる道具にすぎない。
いじめをする奴なんて、SNSがあろうが、無かろうが、関係ない。

しかし、SNSは繋がりが密になりやすく、登録すれば、スマホを持っている限り、常にそのことを考えてしまうような力がある。
最近俺は(SNSってどうなんだろう…)と、思うことがある。
たくさんの恩恵も受けたくせに、そう思う時がある(第一、このnoteもSNSに入るかもしれないし・・・)。
負の側面もある。
イジメっこにとっては、気軽にやり取りできるSNSは(悪い意味で)絶好のツールだろう。便利になっているくせに、やる過ちは昭和の頃と変わってないから、人間は進化してるんだか、退化してるんだかよく分からない。

話しが逸れてしまった。
「ゲド戦記」という映画は、俺が日々感じている虚しさや生きる難しさを、丁寧に表現しているな…と思うのだ。
きっと、それは俺以外の人も少しは感じたことがあるかもしれないし、まったく感じないかもしれない。

クサイ表現だが「生きることの尊さ」を描いていると感じる。
恐らく全ジブリ作品中、もっとも暗い作品だが、この暗さは当時、自分を見つめなおす良い機会になった。

余談だが、劇中歌を担当している手嶌葵のCD「ゲド戦記歌集」は、お勧めの作品だ。

こちらです。全編にわたって、暗めの童謡のような曲が多く、魅力的です。

俺は「ゲド戦記」に関するCD(サウンド・トラックなど)は、すべて所有しているが、とりわけ「ゲド戦記歌集」は良い。
傑作だと思う。
全ての作詞を宮崎吾朗、作曲を谷山浩子が担当している。このタッグは、相当良いのではないか。もちろん、音楽を担当している谷山浩子の功績が大きいが、儚い世界観を的確に描いている宮崎吾朗の歌詞も素晴らしい。
とても牧歌的で、素敵なアルバムなので、機会があれば聴いてほしい。

書いていて、思い出したが、手嶌葵のコンサートは3回観に行った。
当時、俺が住んでいた街にも来てくれて、自転車こいで会場まで向かったものだ。
「ゲド戦記」の映画グッズもけっこう買ったし、映画パンフレット、ガイドブックも買った。
オマケに宮崎吾朗監督にファンレターを2回送った・・・笑

と、だいぶ俺に影響を与えた「ゲド戦記」。
原作者のル・グゥインからは「It` s not my book.It`s your film」と言われてしまったが・・・。
公開当時、観客からは大不評、原作ファンからも激おこプンプン丸(古い)だったが・・・。

俺は、好きだぜ「ゲド戦記」。

天空を気高く翔ぶ、一匹の鷲のような・・・。
丘の上で深呼吸をしたような・・・。

そんな映画です。

最後まで読んでくれて、ありがとうございました。

火傷を負った少女、テルーとアレン。


                     了

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