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天使について一寸の慨嘆

 慌てて取った受話器の向こうは、無音だった。だが、こんな所でイタズラ電話なんかやるバカはいない。番号を知っている人物もかなり限られる。程なく、彼は何かを感じ取ったようだった。
「浅野か? そうなんだろ」
「…さすがだね、まだ一言も喋ってないのに」
 若干、声がいつもと違う。気のせい?いや、明らかに何かが違う。
「どうした? あんまり調子良くなさそうだな」
 お見通しか、という風に受話器の向こうで微かに笑ったのも完全にありのまま伝わっていた。
「ちょっとね、右腕が…」
 右腕といえば、あの右腕のことだ。彼にとっては完全に《自分の担当》の。
「わかった、すぐ行くからおとなしくしてろよ いいな!」
「OK、待ってるよ」
 最低限の言葉しか発していないのにすっかり把握されて安堵したのか、その電話の相手は、少し嬉しそうにそう答えた。

「入るぞ」
「よっ」

 浅野(仮)は、白いバスローブをまとい、細長いふかふかのソファの片隅に半ば埋もれたまま、妙に格好つけて左手を軽く挙げた。呼びつけられたほうの彼=海原渚臣は、持参したやや重そうな鞄を抱えたまま、相手の隣に座った。
「よっ、じゃねぇよ ちょっと服脱いでみな」
「いきなりそんな…大胆だなぁ」
「…殴るぞ」
 彼は、精一杯のちょっと迫力ある低い声でそう言った。その厄介な患者は、彼が珍しく怒っているのを察して、やはりちょっと嬉しそうにニヤけながら、羽織っていたローブを肩から落とした。右腕の肘の辺りには、切り傷を縫合したような跡があった。そして、明らかにそこから先が腫れ――というよりは、むしろ浮腫んでいるように見えた。
「ちょっと最近ムリし過ぎたんじゃないのか? ま、久々に優秀な教え子ができて嬉しいのは判るけど」
 渚臣は、何やらメスに似た道具を取り出して、相手の肘上辺りをちょこちょこといじっていたが、やがてその辺りをぐっと捻った。そこから先はすうっと外れた。マネキンの部品の様に。


【つづく】