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秋色に後髪を引かれながら

旧市街の博物館の前には、アコーディオン弾きのおじさんがいる。いつもいる訳ではない。今日はあのおじさんに会いに行こう、と思ってはいけない。通るつもりがなかった時にふらっと寄ってみるといるのだ。
いつものように、近所の道を真っ直ぐ行ってみたり、ぐるぐるしてみたり、たまに立ち止まっては写真を撮り、鳩の歩き方に心奪われてみたり。今日の公園には黒い鳩が一羽いるだけだった。冬に向けてかずんぐりしていた。ずんぐりしているけど、空を飛べるくらい軽いんだもんな。リスだって同じくらいの大きさだけど、多分体重は全然違うんじゃないかな。地面をつついているけど何を食べているかは分からない。この前は一斉にゴミ箱の近くに集まってきて、何やらポテチのような、白くて軽い物体を宙に舞わせながら取り合って食べていたけれど。本当に食べられているのかもよく分からない。あんな霞みたいなものを、くちばしでつついた程度しか摂取できなくて、どうやって生きているのだろう。歩く時だって脚をめいいっぱい地面と平行になるくらいまであげて、一歩を踏み出すけれど、踏み出しても音はしないし、大して進んでもいない。くちばしの周りの白が、カプチーノの泡に突っ込んだみたいだ。柵の甲斐なく、鉄格子の間をひょいと抜けて石畳へ出る。また何かつついている。多分そこ何もないよ。食べ終わったやつらはふるふると毛づくろいしているし。頭の周りは毛づくろいできない。どうやって頭掻くんだろう?照れた時はどうすれば良いんだろう。芝生に座って、ただ座って、ひなたぼっこする訳でもなく、ただ座っているだけの鳩もいる。日陰浴っていう文化があるのかもしれない。だけど、今の僕には鳩たちが何をしたいのか、よく分からない。食べ物があったらわーっと群がって、それが終わったらぽけっとして。「君たちはどう生きるか」のインコを思い出す。心なしか顔が似ている。鳥同士だから当たり前かも知れない。
ずっと突っ立って鳩を観察している自分も、周りから見たら何がしたいのかよく分からないのだろう。それだったら僕は人間とよりも鳩と友達になりたい。気になったものはじっと見ちゃう質なんだ。人間をじっと見るとなんか変な顔をされるけど、鳩はいくら見ても何も言わないし、嫌悪もしなければ懐きもしない。人間にいっぱい質問すると変な色になる - って書こうと思ったけど、そんなに質問したいほどの人間は世界に一人しか思いつかないや。そしてその人は、どんな質問にも答えてくれる。上手な答え方とは限らないけど。だけどとにかく、ただ鳩は都合が良いのだ。鳩に質問しても答えられないことは知っているから、しようと思ったこともない。僕が観察して、僕が解釈して、僕が愛して、可愛がって、それで終わり。それで良いのだ。愛され返されなくても良い。僕は鳩一羽いちわのことは別に愛していない。集合体としての、種族としての鳩が好きなだけで、そこの薄い灰色に茶色が混じってるのや、首の周りが白いのとか、指が一本ないのとか、僕の頭では全部「鳩」にまとめられちゃうのだから。自分の外側にあるものに矢印が向いている、それだけのことなのだ。
アコーディオン弾きのおじさんは、僕が知っている限りずっと弾き続けている。音が途切れたのを聞いたことがない。もしかしたらみんな、音が途切れないもんだからBGMか何かかと勘違いして、おじさんの存在自体に気づいていないのかもしれない。おじさんは、きっとそっちの方が儲かるだろうに、わざわざ人通りの多いところ避けて、大きなスーツケースと折り畳みの椅子、お金用の紙皿、あとはおじさん自身とアコーディオンだけ。こじんまりと、いるだけなのだ。もしかしたら、頑張っても多数派からちょっとだけ漏れちゃうような、雨の日を喜ぶような、そんな人にしかおじさんは見つけられないのかもしれない。
今日はおじさんに会えた。晴れて、落ち葉がカラカラ言って、ほっぺが冷たくって、キャラメルナッツの匂いはしなかったけれど、木漏れ日の匂いがした。ちょっと遠くからでもアコーディオンの音が聞こえたから嬉しくなって、お財布からぶあつい硬貨を一つ出して、右手に握りしめた。最初は冷たかったそれが、だんだんあったまってきて、しまいにはふかふかになった。僕はおじさんの音を辿った。はじめは木の影に隠れて見えなかったけど、音色という手綱を手繰り寄せていった。どうやってお皿に入れたら良いのか分からなくて、少々挙動不審になってしまったかもしれない。おじさんの前で一回Uターンをした。いやいや、僕は今日おじさんにお金を渡すんだ。反対方向に行っちゃ意味がない。おじさんのアコーディオンをずっと聴いていたい。だけど他に立ち止まってる人なんていない。木の下に立ってたら不自然じゃないかな。
おじさんがこちらをチラチラと見る。僕のことは透明人間か何かだと思って、気にしないで欲しい。鳩だって本当は僕のこと知らんぷりしても良いのに。鳩は気持ちや意図を感じないから許すけど。…いいや、嘘。鳩たちには無視されたくない。だけど人としてじゃなくて、ただの物体として認識してほしい。鳩たちにとって僕は代替可能な物体でしかないから、鳩といるのは気楽なのだ。僕にとっての鳩たちだって代替可能な鳥類でしかない。
おじさんは演奏の手をたゆまず動かす。ゆっくりと近づいてきて硬貨を入れたおばさんに、ちょこっとだけ自分の心を切り分けてあげる。アコーディオンのメロディーは短調。だけど悲しすぎる訳でもない。秋晴れの木枯らしにぴったりだった。鍵盤の方で主旋律を、左手のボタンで伴奏を弾いているらしい。おじさんがまたチラリとこちらに目線をやる。嫌な目線ではない。だけど、お願い、もうちょっとだけここでぼうっとさせて。あなたの演奏が、あなたが、あなたがいるこの空間が好きなんです。
しばらく居た。だけどなんとなくむず痒くなってしまって、ふわふわの1ポンドをお皿に入れた。お皿には小さい硬貨や薄い硬貨、赤いお札、青いお札、色々入っていた。顔をあげると、おじさんはやっぱりちょこっとだけ心を切り分けてくれた。僕もちょこっとだけお返しをした。おじさんは思慮深い人の目をしていた。白く奥まった歯が、ねずみ色の髭の間からのぞいた。僕はそれになんだか満足して、家路へ足を向けた。
すぐに、ガヤガヤと人がごちゃ混ぜになっている場所へ戻ってきてしまった。俗世という言葉が似合うような。人の意識が混線している。意識と声、動き、温度、匂い、全部が絡まって、僕の足を前へ前へと進める。
アコーディオンの音色は、もう聞こえない。

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