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その感動はどこから? 感動した時ほど、自分を疑うべき理由

地域での様々な取り組みをしていると、感動を求める人が沢山います。そして感動したことを「良いこと」と判断し、感動できないことを「悪いこと」だと判断することも多くあります。これは多くの人がそういう思考パターンであると、扇動するのは非常に簡単になっていきます。

自分の感動というものは結構チープなもんで、自分の人生といったような境遇、さらに自分なりに何らかのストレスを抱えていることをクリアしてくれると人は感動します。つまりは良いことか悪いことかというよりは、自分にとって都合の良いことか、悪いことか、によって受け入れ方が全然異なるというただそれだけだったりします。

だから何か不幸などん底に落ちる苦労をし、そこから這い上がっていくという人をみると感動することが多い人は、自分でも何かの失敗をしたり、逆境を抱えながらも、頑張っていると自分なりに思っている人だったりします。自分とその人を重ね合わせて感動するわけです。

だから楽して金持ちになったと思うような人が出てきても誰も感動しないわけですね。むしろそういう人が出てくると、今度は悪意が出てくるわけですが、それは妬み僻みなわけです。ただ自分が妬んでいる、僻んでいる、とは思いたくないので、その対象者のあらを探し始めます。何か悪いことやっているはずだ、あいつはこんなことをしていた、といったら一気に叩くことになるわけです。

だからある時まではすごい共感をされていたのに、成功した後に、一気に叩き落されるということがあるのは、上記の時系列でつながった変化なだけとも言えます。あいつ最近調子乗ってんなとか思い、ただそういう非常にレベルの低い思考はしたくない。そんなところに、そういう成功者が何かミスをすると、一気に自分の悪意を正当化できるのでそれが表に出る。

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