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後継ぎさんの親孝行

父からの熱いラブコールがきっかけで、父の創業した会社で働くことになり、二十数年が経ちました。身内と一緒に働くと言うことは、よそ様の会社へお勤めに出るより、大変なことが多かったと言うのが本音です。

よそ様の会社で働かせていただいている頃は、お父さんが社長の会社で働くって楽そうだな、自由にお休み取れたりするのだろう、家族経営で働く友人を見て、ワガママが通って苦労とかないんだろうな、とか羨ましく思っていました。

ひょっとしたら私も、お父さんが社長っていいな、楽しているんだろうな、苦労知らずなんだろうな、お嬢さんなんだろうな、なんて思われていたかもしれないし、そうでないかもしれないし、、、(笑

私が父の会社に入社した頃は、ちょうど会社が軌道に乗り始めたころで、新規出店、イベント参加、新規事業、それらにまつわる人事や採用と教育などで、とても忙しく社長である父も、夜間に次の現場へ移動する日々でした。

そんな状況のなかで、娘の私が楽に仕事をさせてもらえる事もなく、500キロ離れた店舗間を、1人でトラックを運転し日帰り往復、月の休日数0日、年間休日数12日と、家業ならではの過酷な労働環境の数年間。

私の半年後に弟が入社し、弟とチームを組んで仕事をした時も、売上集計しながらの話題は、2人で社長(父)に抗議することや、どっちが先に夜逃げするか、夜逃げの決行日は教えあうことなど、父の会社を辞める相談ばかりしていました。

そして父の会社に入社し、1番最初に教え込まれたことは、「お父さんと呼ぶな、社長と呼べ」、そして「身内のお前達は、他の人の3倍働いてやっと1人前だ!」、、、、、どんな軍隊に入隊してしまったのかと後悔しました。(お父さんが社長の会社って、ワガママが通るはず? という夢は崩れ落ちました。)

父と2人の時(プライベートの時)も、「社長」と呼び一線を引いていたので、愛人なんですか?って聞かれることも珍しくありませんでした。(愛人ですか?って聞かれる娘の気持ちは微妙ですがね 笑)

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(会社の行事での一枚 @新年会)

そんな父ですが人一倍働き者で、口癖は「仕事は遊びだと思ってやれ」です。仕事だと思うとやりたくないけと、遊びだと思うと楽しいじゃないか!と楽しそうに話し、いつも目の下にはクマをつくっていました。

「仕事は遊びと思う」という考えに共感は出来ないけど、私は父と喧嘩をしながらも父の会社で働き続けました。

父(社長)の無茶ぶりで社員さんとトラブり、社長との間に入り仲裁をすること、新規出店時の先発隊として店舗の立上げ、実務の知識を深めるための勉強、社長には言えないから、、、と言う社員さんの話を聞いたりと、会社で必要とあれば何でもしてきました。

普段は憎たらしい父(社長)なのに、一緒に物事に取り組むときは、不思議と意見があい、自分で言うのもなんですが、父とは阿吽の呼吸で、私は父の一番の理解者だったと自負しています(仕事の取り組みかた限定)。憎たらしい父と意見が同じときは、決まって会社の成長や会社のためにどうしたらいいか!という時です。

父と意見が同じときは、いいお父さんだぜ!と尊敬するのですが、問題はここから、、、、富士登山に例えると、富士山の頂上に行くのに、静岡県側から登るか山梨県側から登るかで、意見の対立が始まり、憎たらしい父(社長)に変身するのです。

当然、憎たらしい父(社長)の意思決定で進むのですが、文句を言いながらも、父の意思に沿うように最善のフォローをしていたので、なかなかいいコンビなのではないかと思います。今では私の得意分野です(笑)

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(早朝に仕入に行ってるところ)

私が社長職で父が会長職になると、大手家具屋さんを想像させるような関係になっていたのですが、一生現役である会長の意思に沿って、出来る限りのフォローをしました。何故ならそれが一番の親孝行だと考えていたからです。

正直に言うと、一番の親孝行だと思うことで、誰の意見も聴かず絶対服従で、頑固で無茶ぶりばかりで憎たらしい父と、一緒に仕事をすることが出来たのです。

父と一緒に仕事をする中で、父の意思に沿って最善のフォローをすることが、父に対する一番の親孝行だと、気がつくことが出来ました。

父に対する親孝行は、その時の私が持てる知識と人生をだしつくした、と言っても過言ではないので、今は精一杯の親孝行した満足感で、充分に満たされている後継ぎになりました。

そして、何ひとつ後悔なく親孝行をする事が出来たからこそ、跡継ぎとして自分らしく自分の人生を生きることが出来る、自分らしいやり方で家業を繋いでいけると考える、珍味屋の跡継ぎです。