ザワークラウト オブ ザ ワークアウト

病室を個室にして正解だった。

希望しなければ4人程度の相部屋となるけれど、入院費をいくばくか上乗すれば個室にできると入院前に説明を受け、私は迷うことなく個室を希望した。健康だろうが不健康だろうが今際の際だろうが、1人の時間と空間は必要だ。知らない隣人の咳払いや衣擦れの音。ましてや、苦しみに喘ぐ声なんて聞こえてきた日にはきっと私には耐えられないだろう。

そうして手に入れた私の部屋は、ベージュともクリーム色とも言えない色の壁と、茶色とも黄土色とも言えない色のタイルが敷き詰められた床。180㎝ほどの味気ない長机と、うっすら錆ついた鉄のパイプ椅子が2脚。必要以上に大きな収納棚から無機質に生えた棒に吊り下げられた14インチほどのテレビ。そして、何人もの人々を看取った、いや、受け入れたであろうシングルサイズの電動ベッド。いかにも病室。まさに病室。一つ一つが病室を醸し出しており、想像を裏切らなかった。きっと全国の病院で統一されたルールがあるのだろう。病室はこういうものだと。ご機嫌さはいらないと。

私は生まれて初めて横たわる電動ベッドを操作しながら、頭や足、全身の角度を上げ下げして、一番おさまりの良い形を探していた。この角度だと腰が痛くなる。この角度だと肩がこる。なかなかおさまりがつかない。

しかしながら、何か違和感を感じる。違和感の原因を突き止めなければここは完璧な病室とは言えない。ベッドの角度だけではない何かおさまりの悪さを感じる。寝なければならない時に限って体の位置や足の温度が気になり眠れないような、そんなまとわりつくような違和感と不快感。

違和感の原因は窓だった。四方に囲まれた壁の一面に、壁の3分の2以上を占める大きな窓のおかげで、開放感が生まれている。陰鬱な閉鎖的空間と対照的な大きな大きな開放的な窓。私は惜しいと感じた。勿体無い。寿司屋でガリの代わりにザワークラウト出されたような不快感に近い。

電動ベッドに横たわり目を向けると、ちょうど半分ずつ空と住宅街が広がり、その境界線は、一面をぱたんと折るための線のように見える。住宅街に目を向けると、そのひとつひとつの家々にそれぞれの家庭の営みが…というものは無く、むしろ、これといった個性のない家々がただただ広がっていた。抱いた印象は、個の家々というより、住宅街という塊。ひとつくらいは我の強い個性的な家があるのではと探してみたが、まるで住民たちが言い合わせたかのように無個性な家々が連なっていた。これもきっとこの地域で統一されたルールがあるのだろう。病院から見える景色はこういうものだと。ご機嫌さはいらないと。

私は私が想像していた通りの完璧な病室である可能性を感じ、嬉しくなった。そして、さらに、一度、落としてから上げるこの粋な計らい。これが侘び寂びというのだろうか。多分違う。いや、間違いなく違う。

完璧な病室とするための最後のピース
あとは、病人だけである。

完成前の病室で私は発病から入院までの一ヶ月を振り返った。病は人権を奪う。人権というのは大袈裟だろうか。社会というコミュニティに属するためのライセンスを失う。

それは、除け者にされたり、攻撃されるというわけではない。本気で心配してくれる人。興味本位で土足どころかルブタンの靴で踏み入ってくる人。興味すら無いが社交辞令を叩きつけてくる人。病を抱える者に対しそれぞれ様々な対応、多種多様なリアクションをとる。

自分本位なことを言っているのは理解している。病というカードを引くと、手元のカードは全て失う。洗濯機で水分を吸ったティッシュのようにぐじゅぐじゅと崩れ果てる。そうして、私がいないことを前提に全てが動き出す。仕方ないのは分かっている。私1人ごときいなくても、通常通り回り続けなければならない。さながら、人気のない古びた映画館にいるようなもので、私はそのおもしろくもない映画をたった独りで阿呆面でを眺めていることしかできない。なぜなら、私は役を与えられていないから。エンドロールに名前すらも載らない。



外はもう暗くなり出している。

そもそも完璧な病室とはなんなのか。

何をこんな真面目に考えているのか。

頭まで病に侵されたのか不安になる。

無事退院できたら1人で寿司でも食べにいこう。

回る寿司ではない。回らない寿司。

ザワークラウトではなくちゃんとガリを添えて。

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