イベント寺をやめよう
「供養」と「生活」は違うもの?
数日前、このような記事を書きました。
そして、この記事を未来の住職塾の塾生に紹介しつつ、こんなことを言いました。
お寺関係を対象にした最近の研修では「檀家制度は終わった」という話を入れるようにしています。もちろん、現在でもほとんどのお寺では旧来の檀家制度に基づいて日々が営まれていることや、とりわけ地方寺院では「檀家制度が終わるなんて、とても考えられないほど、それが当たり前に存在している」空気が流れていることも、知っています。でも、それが右肩下がりであることは、確かですよね。グラフの行方が右肩下がりで、その流れが回復する見込みがないならば、遅かれ早かれそのグラフは地面にぶつかりますよね。ゼロになる。でも、ゼロになった時点で「檀家制度が終わりました」って言っても、遅いわけです。だから、まだ終わらない段階から、どこかで「終わったもの」と見切りをつけて、考え方や行動を転換しなければなりません。
では、檀家制度が終わったものとした時に、これからのお寺はどういうシステムでやっていけばいいのでしょうか。私は、それはおそらくウェルビーイングとサステナビリティを中心に据えた生活協同組合のようなものが適していると思います。仏道を宗教や信仰という枠で捉えるところから、日々の習慣や生活の枠で捉え直してみると、ぐっと可能性は広がります。冷静に考えてみると、宗教や信仰という枠にはめ込むよりも、日々の習慣や生活という枠で見直した方が、仏道の現実にずっと近いようにも思います。そして、この捉え直しは、檀家制度の終わりどころか、世界の終わりすら見えてきた昨今の世界情勢の中で、お寺ができる唯一で最大の本業的社会貢献ではないかと思います。
そうしたら、それを読んだ塾生のある方(住職)から以下のコメントをいただきました。許可を得て、引用します。
檀家制度の終焉は確かですが、テンプルモーニングやラジオ体操で生き残れるとは到底思えません。
それは、寺院の一部にはなりますが、代替え可能なものではないでしょうか?
今の形の継続は確かにないですが、自分は一方で供養から逃げきれるとも思えません。
地道な信頼を得る作業しかなく、人口減少とともに衰退するだろうと思っています。
それでも残るとすれば、信頼をコミュニティで得て生き残れるか?ただ敵はインターネットになりますから、無限大とも言えます。かなり難しいと感じますね。
なるほど、僕のメッセージはテンプルモーニング的な生活習慣のことだけを指していて、それはお寺の「供養」に関わらないことと受け止められる可能性があるのかと、気づかせてもらいました。
メッセージの本意はそうではなかったので、これを機にもう少し補足します。
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