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当事者研究と道徳次元をつなぐ「仲間」

今週末からスイスで開かれる、世界経済フォーラム年次総会(通称・ダボス会議)に向かう。世界経済フォーラム関連の会合は、自分もメンバーになっているYoung Global Leadersの関係も含め、世界のいろいろな場所でさまざまな種類のものが開かれているが、本体となる年次総会にはなかなか行ける機会はない。今年は縁あって招待いただいたので、思う存分、お役目を果たしてこようと思う。その「お役目」が何なのかと言えば、はっきりとはわからない。「なぜ招待されたのか」については特に説明がないから、自分で決めるしかない。リストを見る限り、参加者2,000人の中に、宗教者はほとんどいなそうだ(パッと見、自分以外見つけられなかった)。だとすると、他の誰も言いそうのないことを言い、誰もやりそうのないことをやるのが、とりあえずの役目かもしれない。

他の誰も言いそうのないことについて考える中で、日本から世界へ持っていけるアイデアとして、古くは大乗仏教の思想はもちろんとして、最新のものとしては、道徳次元と当事者研究の話題を提供したいと考えている。それぞれ、東大の鄭雄一先生と熊谷晋一郎先生が研究している独自性の高いテーマであり、両研究は今のところ完全に独立してなされている(両先生同士、面識もないかもしれない)ものだが、個人的には今後、議論が重なり合う局面が出てくるのではないかと考えている。

道徳次元については、先日のnote記事に少し内容を書かせてもらったところだ(「道徳次元5を設定しない理由」)。この度、晴れて当事者研究の熊谷晋一郎先生との念願の対面が叶い、対談する機会をいただいた。個人的には長年のファンであり、熊谷先生の「自立とはたくさんの依存先を持つこと」という言葉を講演などでも何度引用したかわからない。実際にお会いしてみると、強い目力と存在感に圧倒されつつ、なんだか長年の友人のような感覚も持った。対談の内容は後日、サンガ新社で連載中の「Post-religion対談」で掲載される予定なので、お楽しみに!

当事者研究とは何か。
かつて書いた自分の記事からの抜粋を再掲する。



--- 以下、過去記事より引用 ---


「自立」とは「依存」先を増やすこと

「べてるの家」の「当事者研究」をご存じでしょうか。

”「当事者研究」は、北海道浦河町における「べてるの家」をはじめとする起業をベースとした統合失調症などをかかえた当事者活動や暮らしの中から生まれ育ってきたエンパワメント・アプローチであり、当事者の生活経験の蓄積から生まれた自助-自分を助け、励まし、活かす-と自治(自己治療・自己統治)のツールである”

引用元:当事者研究ネットワーク

札幌からクルマで3時間、北海道の日高地方(競走馬で有名)にある人口14,000人の町、浦河町。今から30年以上前に、過疎化の進む浦河町で、精神障がいを抱えた人たちが「町のためにできることはないか?」と考えたところからできたのが、「べてるの家」です。

私は3年ほど前に、縁あって北海道浦河町に呼んでいただき、「べてるの家」を訪問したり、代表の向谷地生良さんや入所者の方々と一緒にトークイベントに出させていただきました。

なぜ、「べてる」が注目されているのか。

ポイントはいろいろありますが、何と言っても素晴らしいのは、ともすれば世間から隠される精神の病を、当たり前のものとしてとてもオープンに発信しているところです。べてるでは統合失調症や鬱など、精神の病を抱えた100名ほどのメンバーと、それを支える70名ほどのスタッフの方が共に活動しています。皆さん、幻聴や幻覚などの症状を抱えておられますが、一人ひとり、自分の症状について「当事者研究」を行ない、自分で自己病名をつけて病気と根気よく付き合っています。

たとえば、私の見学を案内してくれた方は、統合失調症を抱えておられましたが、「声ヘリウム自立研究中・甘い言葉頭に入らないタイプ」という<自己病名>を自分の名刺に書いて渡してくれました。自分を褒める言葉や、「愛」とか「好き」とかいう言葉が、すべて誰かに消されて耳に入ってくるそうで、私との会話の最中も、途中から聞けなくなってしまったりもしました。また、別の方は「おなかがすくとクルクルと回るダンスをしてしまい止まらなくなる」症状があるとか。それぞれに、生きづらさを抱えておられますが、自分で自分のことを知り、お互いがお互いのことを知ることによって、支え合いながらより生きやすい環境を共に創っています。

この、「べてるの家」の理念が、本当に素晴らしいんです。ホームページから、ちょっとご紹介します。

<べてるの理念>
・三度の飯よりミーティング ・安心してサボれる職場づくり ・自分でつけよう自分の病気 ・手を動かすより口を動かせ ・偏見差別大歓迎 ・幻聴から幻聴さんへ ・場の力を信じる ・弱さを絆に ・べてるに染まれば商売繁盛 ・弱さの情報公開 ・公私混同大歓迎 ・べてるに来れば病気が出る ・利益のないところを大切に ・勝手に治すな自分の病気 ・そのまんまがいいみたい ・昇る人生から降りる人生へ ・苦労を取り戻す ・それで順調、などなど

引用元:べてるの家 公式サイト

どうでしょう。お寺作りにつながるヒントがありませんか? 浦河町で私の講演に来てくれたべてるのメンバーが、私が「お寺は生きる意味を確かめる場所」と言ったのに対して、「あ、それ、べてるのことみたい!」と反応していましたから、べてるとお寺は通じるものがたくさんあると思っています。

べてるの家には本当に個性の際立った人が、苦しみを抱えながらも伸び伸びと暮らしていました。私は自分の第二の故郷と勝手に思っているインドを思い出し、とても居心地のよい時間を過ごしました。日本にいると、あまりにも同調圧力が強かったり、同質性が高かったりと、息苦しく感じることがしばしばあります。私は鈍感なのでそのままやり過ごすことができますが、繊細な人ほどズレに耐えることができず、心の病を発症してしまうのかもしれません。べてるでは、そのズレを大事にして、無理やり”社会復帰”させるようなこともせず、「安心して絶望できる人生」「人として生きる苦労を取りもどすこと」などを大切にしています。

浄土系のお寺ではコミュニティづくりにおいて「共生(ともいき)」という考え方が大切にされます。多くの場合、ご縁の横糸と縦糸のいのちのつながりのことを表します。横糸としては、いまここに生きているいのちのつながり。縦糸としては、過去から現在、そして未来へとつながっていくいのち、あるいは、先祖から自分、そして子や孫へとつながっていくいのちのつながり。「縁起」という考え方における「縁」の部分で、おおよそ説明されていることが多いようです。

しかし、この「共生」は、「縁起」における「起」の部分ももう少し強調されるべきではないでしょうか。あらゆる存在はそれそのものとして独立して成り立つものは何もなく、すべてのいのちは相依って成り立っているということですが、それと同時にそのような世界が私という一点において成立しているという、それをリアルに感じられるかどうかが大切なように思います。人間誰もが、他の誰一人としてそれを奪うことができない自分だけの宇宙の住人であるようなものです。

人と人との関係性というもの、本当のところは、そのようなお互いに理解不能な宇宙と宇宙が交錯して生きづらさが生まれて来るのかもしれません。一見、当たり前に成立しているように見える一般社会のコミュニケーションですが、現実には絶望的なほど重なり合うことのない他人同士です。べてるでもコミュニケーションがワイワイと活発なのは、お互いを深く知ることによってどこまで行っても最後には残る「分からなさ」に対しての、深い絶望感があるからではないかと思いました。

べてるは病気を抱えた人が大勢ですから、その「分からなさ」が強烈に出てくる。向谷地先生が「なるべく早く絶望することが大事」と仰るのも、その「分からなさ」から来る絶望と、絶望という経験そのものが実は互いに共有できるものとしてそこに生まれるという希望を、両方見ておられるからでしょう。

絶望から生まれる希望。「共生(ともいき)」というコンセプトを、このようにべてるのレベルまで深めることができれば、お寺のコミュニティも強く魅力的なものになっていくのではないでしょうか。


(以上、過去記事からの引用)

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そして今、この「当事者研究」を本格的に研究されているのが、東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎 准教授だ。熊谷先生は以前から「当事者研究」に着目されて研究を進められてきたが、近年、東大としても本格的にその後押しをするようになり、最近では当事者研究を正式テーマとする研究室も設置されるようになった。


熊谷先生による当事者研究に関する書籍も出ているので、興味のある人はぜひ、読んでほしい(中盤は研究内容を掘り下げていくので、難解かもしれないけれど)。


さて、この道徳次元と当事者研究が、どのように重なりうるか。鍵は「仲間」ではないかと考えている。

それぞれ全く別の研究だが、共通の命題として「仲間という感覚」について取り扱っているという点は、共通している。

では、僕らが誰か(それは場合によっては人でないこともある。例えばペットなど)のことを「仲間」と認識するとき、僕らは何かしらの「仲間性」を見出しているに違いない。それは、当事者研究においては「この人は自分と同じ”当事者”だ」と感じるために必要なものだし、道徳次元においてはその次元の範囲を決定するものとなる。


仲間とは何か。

ものすごくシンプルな問いでありながら、哲学的にも簡単に答えが出ない深淵な問いでもある。この問いは、Responsibility(=責任、あるいは、”応答可能性”)をめぐる議論にも関係しているように感じる。


「私」の範囲をどこまで拡張できるのか。道端でうずくまる見知らぬ人に、思わずresponseしてしまう「私」とは。国家のために「私」を捨てるとはどういうことなのか。

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