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AWEのいしずえ

仕事でニューヨークやプリンストンなど、アメリカ東海岸の都市を訪ねた。それを機に北米を探索しようと、西海岸にも足を伸ばしてサンフランシスコにほど近い街 バークレーへ。目的は、BCA(Buddhist Churches of America)浄土真宗センターの訪問と、心理学者ダッカー・ケルトナー教授にお会いすることだった。ケルトナー先生とは、近く書籍の仕事で関わるご縁をいただいている。


彼が研究を行うカリフォルニア大学バークレー校は、浄土真宗センターから歩ける距離にある。一度カフェでご挨拶をさせていただいた翌日、大学の研究室で自身の教え子でもあるシリコンバレーの起業家の方々と談話する機会も設けて下さった。米国の最先端から世界をひらいていく人々を、肌で感じる有難い体験だった。

ケルトナー先生は、長らく心理学の世界から「AWE」を科学的にも研究されてこられた方だ。最近の著書『Awe』は全米で注目されていて、日本語版はまだ出版されていないものの、アメリカの書店を巡れば大抵、目の留まるところに平積みされている。


AWEとは、自らの想像や理解を超えた偉大なものに遭遇したとき、「自分のちっぽけさ」に気付かされるような感情感覚が伴う概念のこと。それは、圧倒的な規模を伴う、おおいなる自然がみせる大地や空の姿であることもあれば、日常のささやかな物事が放つ美しさであったり、心奪われるような人格など、形のないものもあり、心身がAWEを感じる対象は可能性に満ちている。そこには一切の優劣はなく、評価や判断の意識から離れている瞬間的にこそ、生じるものだろう。

最近では、"awesome" という言葉で日常的な感嘆表現として使われるのをよく目にするが、AWEには大いなるものへの畏敬の念が含まれていて、日本語では「畏怖」と訳されることが多い。多様な感覚が混ざり合う畏怖のなかでも、AWEは恐れ(fear)のニュアンスより、悦ばしさに近い感覚という。

それがどういったものであるか、関心のある方は、ぜひ彼の著書を開いてもらいたい。

<以下、出版社 Penguin Random House『Awe』紹介文より翻訳>

AWEは、未知なる不思議さに溢れている。

立ちはだかるグランド・キャニオンを目にした時の鳥肌を、もしくは、子どもが初めて歩いた瞬間の驚きを、測量することなどできるだろうか。

群衆に立ち調和のなかで歌う時、一斉に湧き立つ泡を、もしくは、今に残るいにしへのアートを前にして、引き込まれるように感じる不思議さを、どんな言葉で表現できるだろう。

私たちの理解を超えた、この世界の謎に遭遇して感じるAWEについて、15年前まではサイエンスが語ることはなかった。科学は、恐れや嫌悪感といった生きるに不可欠と思われる感情の研究を続けていた。革新的な思考によって、展開の時を経た今、いかにして、私たちが社会的に、より根源的に必要とするものごとに遭遇してきたかということに焦点が向けられている。

協力する、コミュニティを形成する、共通のアイデンティティをつくる文化を創造するーーそうした、AWEによって呼び起こされ、突き動かされてきた力や行動に支えられて、私たちはこれまで生命を繋いできた。

Keltnerはこの捉えようのないAWEという感情について、本来的かつ自身の深く個人的な探究を著書『AWE』で示している。AWEが私たちの脳や身体をいかに変容させるかという新たな研究を明らかにすると共に、歴史や文化、そして自身の人生における"かなしみ"のなかにある様々なAWEについて検証を行う。そうしてKeltnerは、私たちが日々の暮らしの中で、いかにAWEを掘り起こして生きるかが、私たち人間に宿るもっとも人間らしいものの真価に気づくことになると、本書を通して導いていく。

これまでにない更なる分断と、種々の危機をより肌身に感じる世界においてこそ、私たちはAWEを必要としているだろう。こころをひらけば、そこには、澄んだ論拠と偉大な発想、新たな洞察へと私たちを導くとともに、免疫系の炎症反応を抑え、私たちの身体をたくましくするAWEがある。

AWEは、関わりを創造し分かち合おうとする、そして、取り巻く自然や社会にとって好ましい行動を取ろうとする人間の素質を活性化する。私たちは何者であるかという認識を変え、芸術や音楽、信仰の創造を呼び起こす。先鋭的かつ深遠に、読み手を気づきや理解に啓く体験的洞察に溢れる『Awe』は、この分野における第一人者であることのみならず、AWEを探求する仲間 Keltnerが自ら届ける、AWEを人生をひらく重要な力にするための、私たちの「フィールドガイド」(この世を生きる手引き)である。

Penguin Random House

創造を超えたものに出会った時、心が打ち震えるように湧き出るAWEの感覚は、親鸞の語る「信心」に重なる。信心というと、「私が信じる信仰心」と思われがちだが、「信」とはやってくるもので、「自分が信じる」ものではないと親鸞はいう。「ほとけが私をして "信" せしむるもの」とでもいえるだろうか。私という場において "信" を受け取ることは、その機を待つということでもある。浄土真宗には「疑蓋無間雑(ぎがいむけんぞう)」という言葉がある。

仏教における疑とは、迷いを超える仏教の理に対し猶予して心が定まらない猶予不定(ゆうよふじょう)を疑という。蓋はおおう、かぶせるの意で、仏教の真理に対して自らの心を蓋(おお)って受け容れないから蓋(ふた)という意もある。浄土真宗では阿弥陀仏の本願の言葉に、この疑いの蓋を雑(ま)じえないことを「疑蓋無雑(ぎがいむぞう)」といい、他力信心をあらわす語とする。

WikiDharma:疑蓋


ほとけのはたらきに “疑いなき心がひらかれている” と言い換えることもできるだろう。そのはたらきは、私のコントロールを超えている。望みや希望にかなわずとも、どのようなものごとのはこびや現象も、ほとけのはたらきとして受けとめていく。私の心は、AWEを感受する土壌だ。土壌は時に、やせ細りもするけれど、生きている限り、そこに花を咲かせるポテンシャルを常に宿している。よく手入れされた肥沃な土壌に咲き誇る一面の向日葵ばたけの美しさにAWEを感じることもあれば、日照りの中でカチカチに痩せほそった地面の隙間から健気に咲く一輪のたんぽぽに感じるAWEもある。AWEに良し悪しや優劣はないし、良し悪しや優劣から離れているからこそAWEが生まれる。

そうした、わたしたちの誰もが実はAWEに開かれているのだというポテンシャルに気づき、知ることを、「信」と呼ぶのではないか。そのポテンシャルを信知することが、AWEのいしずえ(礎)となっていく。

念仏が、土壌を耕すひとくわひとくわだとすれば、浄土仏教でしばしば論争となってきた「一念か、多念か」は農法の違いに過ぎないのかもしれない。かつて親鸞が師である法然と弟子である自身の「信」について「まったく違いはない」と語り、弟子たちの間で議論となったエピソードがあるが、親鸞はその「ポテンシャル」に注目していたのではないだろうか。

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